第三十一話 鉄砲玉
天正十年三月。日の本の東では、織田信長が、宿敵、武田家を滅ぼさんと猛攻を仕掛け、時代が大きく塗り替えられようとしていました。
その華やかな勝利の影で、西国に一人、時代の『次なる形』を冷徹に見据える男がいました。
黒田官兵衛。
盤面をひっくり返すための黒き設計図を描き始めます。
ターゲットは、信長の傍らで静かに心を削り取られていく一人の重臣。
歴史の歯車を狂わせる静かなる『計画』が始まります。
天正十年(1582年)三月。
羽柴軍の備中への侵攻が間も無く始まろうとしていた。
夜の帳が下りる頃、自室にて黒田官兵衛の視線は遥か京、そして安土の動向を射抜いていた。
三年前の有岡城落城以来、官兵衛は人知れず、自らの計画を少しずつ、だが着実に前へと進めている。一年の幽閉生活が彼に与えたのは、不自由な足と、地獄の底で研ぎ澄まされた『怪物』の知略であった。
官兵衛が放った『草(忍者)』からは、日の本各地の動勢が、さざ波の音のように日々耳に入るようになっていた。その膨大な情報の欠片を、彼は頭の中の暗い部屋で繋ぎ合わせ、一つの巨大な絵図へと変えていく。
今、世の関心は東にあった。
織田信長が宿敵、武田勝頼を追い詰め、甲斐の地で名門武田家がまさに灰燼に帰そうとしている。かつて『人は石垣、人は城』と謳われた最強の軍団も、信長の圧倒的な物量と冷徹な進軍の前には、冬の露のように消え去ろうとしていた。世の誰もが信長の力を神のごとく恐れ、ひれ伏している時期であった。
だが、官兵衛が恐れているのは武田の滅亡そのものではない。その後に続く『信長の次の一手』である。
(東では信長が武田を屠り、天下は織田の色に染まろうとしておる。なれど、この西国の泥にまみれているのは我らのみ……。)
官兵衛の指先が、地図の上の『備中』をなぞる。
(武田が消えれば、信長の目は間違いなく西に向く……。いや、既に向いておろうな……。)
官兵衛の手元には、安土からの極秘の報せが届いていた。信長は武田を平らげた後、軍勢をそのまま西国へと反転させ、自ら備中へ出陣する意向を固めつつあるという。
それは官兵衛にとって、最悪のシナリオであった。
「信長が自らこの地に立てば、西国は瞬く間に織田の色に塗りつぶされよう。なれば、筑前(秀吉)殿の立場は単なる一軍団長にまで弱まり、わしが描く『信長亡き後の世』はしばらく遠のいてしまう……。」
秀吉の前で采配を振るっている間は、忠実にして類まれなる軍師。だが、ひとたび夜の闇に一人残されれば、官兵衛は『怪物』の顔となり思案を深めていた。
官兵衛の思考は、常に『結果』と『期限』から逆算される。
今回の結果――それは、安土の織田信長をこの世から葬り去り、主君、秀吉を天下人へと押し上げること。
そして期限は、信長が備中遠征の軍を本格的に動かす『その日』まで。
信長がこの西の地に届く前に、盤面を根底からひっくり返さねばならぬ。
「さて……駒を並べ直さねばな……。」
官兵衛は頭の中に並べられた目に見えぬ『駒』を動かし始めた。
信長という巨大な太陽を撃ち落とすには、強烈な殺意を秘めた『鉄砲玉』が不可欠である。
だが、もはや迷う必要はなかった。先日の『三日月』の一件が、官兵衛に唯一無二の答えを突きつけていた。
「やはり、お主しかおらぬわ……明智殿……。気の毒ではあるが、ここは新しき世のため、生贄となっていただく……。」
三好康長が信長に献上した、天下の名器『三日月』。
あの一椀が信長の手元に渡った瞬間、それまで明智光秀が心血を注いでいた長宗我部元親との同盟は、信長によって無残に反故にされた。官兵衛には、その報せの裏側に潜む『破滅の響き』が聞こえていた。
「明智殿……。お主の面目は、今やその『三日月』によって粉々に砕け散った。信長という男は、茶器一つでお主の忠義と数年の苦労を買い叩いた……。」
官兵衛は、安土の茶室で『三日月』を愛でる信長の姿を思い描く。信長にとって、それは単なる茶器ではない。自らの権威に従わぬ者を屈服させた戦果であり、そのために部下の面子が潰れようが、四国が再び戦火に包まれようが、欠片ほども気にしていないのだ。
「明智殿にとって、こたびの四国の儀は織田家中での『立ち所』を定める命運の境であった。それを信長は、無慈悲に踏みにじった。いや、踏みにじったことさえ気づいておらぬ。その『無関心』こそが、明智殿のような忠義の士には、何よりの猛毒となる……。」
官兵衛の指が、脳裏にある『明智光秀』という駒を静かに倒す。
徳川家康、長宗我部元親、あるいは毛利。彼らにも信長を討つ動機はあろう。だが、光秀のように『今、心を叩き割られた』鮮烈な痛みはない。
(明智殿……。貴殿は真面目すぎるのだ。真面目すぎるゆえに、信長の理不尽を『試練』ではなく『乱世の悪』と定義してしまう。そうなれば、貴殿の正義感はその刃を主君へ向けずにはいられぬ……。)
官兵衛は目を閉じ、甲州の地で現在進行形で削られているであろう光秀の姿を幻視した。
武田討伐の後、周囲が勝利に沸く中、誰よりも骨を折ったはずの光秀が、信長から『貴様の何が功か』と衆道の前で叱責され、殴りつけられる凄惨な情景。
信長は絶頂にあり、それゆえに周囲の痛みに鈍感になっている。その『鈍感さ』という火種が、光秀という乾いた薪を焼き尽くそうとしていた。
「お主こそ、わしが求めていた最高の『鉄砲玉』よ……。ただこのままではお主は飛ばぬ……。既に長宗我部と謀叛の話が出ているやもしれぬが、今や無双となった織田軍を敵に回すほど愚かではなかろう。
ただわしが『引き金』を用意したら……。」
引き金さえあれば光秀が信長を討つ。
その報せが届いた瞬間に、筑前(秀吉)殿が『仇討ち』の旗を掲げて京へ駆け戻る。毛利とはそれまでに決着を着け、背後を突かれる心配を無くす。
(主君を討った逆臣を、神速で討ち果たす。その時、筑前(秀吉)殿は信長の正当な後継者として、天下の王座へ王手をかけることになる……。)
官兵衛の瞳に、三月の冷たい夜気を含んだ暗い光が宿る。
彼は、膝の上に置かれた竹中半兵衛の軍配をそっとなぞった。
亡き友が愛したこの国を、最も効率よく、最も血を流さずに平らげるための道。それは、一度地獄に落ちた官兵衛にしか見えない『黒き細道』であった。正道を行く者には決して歩めぬ、泥と血にまみれた道である。
「半兵衛殿……。我ら二兵衛、今こそ立ち上がる時でござる……。わしは、地獄で見つけたこの光を、決して離しはしませぬ。たとえこの手が、どれほど黒く汚れようとも……。この乱世を終わらせるためなら、わしは喜んで怪物であり続けましょうぞ。」
恩師への誓いを胸に刻み、官兵衛はさらに意識を深く沈める。有岡で散った花たち――だし、そしてふじ。ふじの最期の悲鳴が、今も耳の奥で微かに響いている。
「だし殿……そしてふじ……。お主たちの死によって、わしの中から『迷い』という名の人間らしさは消えた。わしは怪物となり、半兵衛殿の魂と共に、誰もが息を吸える新しき世を作っていく……。」
陣の外では、三月の冷たい雨が篠突くように降り始めていた。
官兵衛の頭の中で、全ての駒が不気味な沈黙を保ちながら、連鎖爆発の時を待っていた。
歴史の濁流が、音も立てずに一人の男――明智光秀へと、逃れようのない勢いで流れ込み始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
彼が今回選んだのは直接的な武力行使ではなく、心を削られていく明智光秀を鉄砲玉に据えるという効率的な策でした。
また、最後に官兵衛が語り掛けた『だし』や『ふじ』への言葉。
彼の非常な決断の裏には愛した者たちを守れなかった禍根とその犠牲を無駄にしないために『新しい世』を作らねばならないという、彼なりの悲しき祈りが込められています。
次話、官兵衛の日の本をひっくり返すほどのクーデター計画がより具体化していきます。




