第三十話 三日月
嫡男、松寿丸が元服し、『黒田長政』として新たな一歩を踏み出した慶事。
しかし、その祝宴の裏で、秀吉と官兵衛の視線は既に次なる標的、『四国』へと注がれていた。
長年、明智光秀が心血を注いできた四国工作を、秀吉の野心と官兵衛の知略がいかにして根底から覆していくのか。
一つの『茶壺』を巡る、冷徹な政治劇の幕が上がります。
官兵衛は、嫡男、長政の元服の儀その光景を少し離れた場所から見守っていた。かつて土牢に繋がれ、絶望の中で見た『家族の絆』が、今、一つの結実を見た。しかし、官兵衛の脳内は、この幸福な余韻に浸ることを自分に許さなかった。
「筑前(秀吉)殿。お顔に、隠しきれぬ『天下の欲』が出ておりまするが……。」
祝宴が盛り上がる中、官兵衛は隣に座る秀吉に、人知れず声をかけた。秀吉の目は笑っていたが、その視線は長政ではなく、はるか遠く、四国の地を睨んでいるように見えたからだ。
秀吉はニヤリと口角を上げると、盃を置いた。
「風に当たらぬか?官兵衛……。」
二人は人目を忍び、城の北側に位置する物見櫓へと上がった。階下からはまだ、家臣たちの賑やかな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「官兵衛、お主も分かっておろう……。上様は、四国の土佐守(長宗我部元親)殿を疎み始めておられる……。」
秀吉の声から酔いが消え、野心家の鋭い響きが戻った。
「土佐守(長宗我部)は土佐の一領主から四国を平らげんとする勢いだが、あやつは上様に忠誠を誓いつつも、裏では己の領土を一切渡そうとせぬ。上様は『扱いにくい男じゃ』と吐き捨てておられた。」
「左様。なればこそ、惟任(明智)殿は必死に仲介をしておられまする。」
官兵衛は淡々と応じた。光秀にとって、長宗我部との同盟こそが織田家における自らの外交的な牙城である。
「惟任(明智)殿は、元親の妻が己の家臣、斎藤利三の縁者であることを盾に、四国を己の手中に収めようとしておられる。筑前(秀吉)殿、まさかそれを……。」
秀吉は欄干を強く叩いた。織田家中において古参の家老ではない光秀と秀吉は、常にお互いを意識し、出世を競り合う関係である。
「当たり前よ! 前から思うとったが、上様から西国平定を任されたこのわしが、四国を黙って明智に渡すわけにはいかぬがや……。そこで官兵衛、わしは『阿波の三好康長』を動かしたい。」
三好康長(笑岩)。かつては畿内を席巻した三好一族の重鎮であり、信長に最後まで抵抗した仇敵である。今は阿波に逃れ、再起を狙っていた。
「康長は、長宗我部に領地を奪われた恨みがある。わしは密かに使者を出した。康長を織田に降らせ、わしの甥、次兵衛(秀次)をあやつの養子に送り込む。そうすれば、四国における『三好の旧領奪還』は、わしら羽柴家の戦となる。上様も、懐かない長宗我部より、身内となった三好を可愛がられるはず……。」
秀吉の言葉に、官兵衛は深く頷いた。秀吉の直感は常に正しい。だが、軍師としての官兵衛は、そこにさらなる『劇薬』を調合する。
「筑前(秀吉)殿、それだけでは足りませぬ。上様の御心を一気に惟任(明智)殿から引き剥がすには、目に見える『至誠』が必要にございます。笑岩(康長)殿に、あの大名物『三日月』を献上させましょう。」
『三日月』の茶壺。天下に名高いその名器を、信長が欲していることを官兵衛は知っていた。
「名器を差し出し、膝を折る笑岩(康長)殿。それに対し、理屈を並べて上様を説得しようとする惟任(明智)殿……。上様がどちらを好まれるか、火を見るより明らか。惟任(明智)殿には、一滴の言い訳もできぬほどの屈辱を味わっていただく……。」
秀吉は、官兵衛の手を取り、力強く握った。
三好康長は『三日月』の寄進を最後まで渋っていたが、『御家再興』のため、最終的に了承するしかなかった……。
数日後、安土城の大広間。
緊張した面持ちの明智光秀の前に、秀吉に導かれた三好康長が進み出た。
「上様。この山城守(三好康長)殿、これまでの不忠を詫び、この家宝を差し出したく存じます。」
康長が恭しく差し出したのは、名器『三日月』であった。
信長はその茶壺を手に取ると、窓からの光に透かし、声を上げて笑った。
「見事なり! 康長、これほどの品を隠し持っておったか。これこそ、織田の天下に相応しい宝よ!」
光秀が青ざめた顔で口を開いた。
「上様、お待ちを! ここで山城守(三好康長)殿を重用すれば、土佐守(長宗我部元親)殿との約束が反故に……。」
「黙れ!光秀!」
信長の怒声が広間に響き渡った。
「長宗我部などは、所詮は田舎の野心家よ。扱いにくいばかりで、このような宝一つ差し出せぬ。これからは三好と筑前に四国を任せる。光秀、貴様はもう口を出すな!」
光秀の全身から血の気が引いた。彼が何年もかけて築き上げた外交ルート、そして織田家における『四国担当』としての誇りが、秀吉の用意した一つの茶器と、一人の老兵によって、塵のように吹き飛んだ瞬間だった。
悪びれもせず、勝ち誇った笑顔で去っていく秀吉。光秀は、その背中を殺意の籠もった眼差しで見送った。
だが、光秀は気づいていなかった。その光景を影から、一分の隙もない冷徹な目で見つめている男がいることに……。
この後、信長の四国政策は、秀吉が描いた絵図の通りに凄まじい速度で変貌を遂げていった。
三好康長を先導役とした『四国討伐』が正式に決定し、それまでの長宗我部元親との友好関係は、紙屑のように一方的に破棄されたのである。信長は、光秀が積み上げた数年越しの外交努力を無視し、三好を支援する羽柴家主導の軍事行動を承認した。
これは光秀にとって、単なる手柄の喪失ではない。織田家内での居場所を奪われ、主君に『無能』と断じられたも同然の処遇であった。官兵衛の放った『三日月』という一矢は、信長の物欲を刺激すると同時に、光秀の忠義の拠り所を根底から腐らせていったのである。
その夜、官兵衛は一人、城の櫓に立っていた。
懐から取り出したのは、ふじの形見の数珠である。
「パアテル・ノステル、キ・エス・イン・セリス、サンティフィセトウル・ノメン・トウウム……(天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように……)」
静かな祈りの声が、夜の帳に溶けていく。
官兵衛は、光秀の絶望を確信していた。
(明智殿……お主の怒りは、やがて上様への刃となろう……。わしは、筑前(秀吉)殿の野心という風に乗り、お主の殺意を利用ささせていただくとしよう……。)
官兵衛にとって、長政の元服は『光』であり、守るべき未来であった。そしてその未来を守るためなら、自分はどんな悪魔にでもなる。
「長政……お主には、この血の匂いはさせぬ。父がすべて、地獄へ持っていく……。」
夜明けの空が、じわりと血のような赤色に染まっていく。
それは長政の輝かしい門出を祝う光であると同時に、数ヶ月後に訪れる、日本史上最大の『叛逆』の幕開けを告げる灯火であった。
官兵衛の指先が、最後にゆっくりと十字を切った。
最後までお読みいただきありがとうございます。。
本作において『本能寺の変』は、官兵衛が周囲の野心や憎悪を『光秀』という一本の糸に紡ぎあげた『必然』として描いています。
名器『三日月』の献上は、史実においても信長の方針を劇的に変えた重要な出来事。それが光秀のプライドを粉砕し、絶望へと追い込んでいく過程に軍師官兵衛の『毒』を感じていただければ幸いです。
次話はいよいよ本能寺の変の具体的な画策が始まります。




