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第二十九話 黒田長政

 天正十年一月。黒田家に新たな風が吹き込みます。

 人質として岐阜に送られ、非常な処刑命令を下されながら、竹中半兵衛の命懸けの献身によって救われた松寿丸の元服。


 彼が授かったのは、織田信長への忠義を示すと同時に、父、官兵衛がひそかに込めた『ある英雄』への憧憬と、魔王に屈さぬ、不屈の意思が刻まれていました。

 黒田の『牙』が揃う、継承の物語です。

 天正十年(1582年)一月。播磨・姫路城の空気は、冬の厳しさの中にも、どこか沸き立つような熱を(はら)んでいた。黒田家にとって、一族の行く末を左右する(おごそ)かな祝い事が行われようとしていたからである。

 

 それは数えで十四歳になった松寿丸の元服であった。

 

 明日の命も保証されぬ戦国の世において、一つ、また一つと齢を重ねることは、死の淵から一歩ずつ遠ざかった証でもあった。

 特に、一度は処刑を命じられ、竹中半兵衛の奇策によって奇跡的にこの世に繋ぎ止められた松寿丸にとって、この日は単なる成人式ではない。亡き軍師への報恩(ほうおん)と、地獄から戻った父の跡を継ぐという、重き運命を背負う儀式であった。

 

 儀式を控えた数日前から、官兵衛は一人、静まり返った自室で、息子がこれから背負うべき名を、盤面を読み解くような執念で思案していた。主君、織田信長より偏諱(へんき)を賜った『長』の字を用いることは絶対の条件である。

 

 その思考の果てに浮上したのは、かつて北近江を()べた悲運の名君『浅井長政』の影であった。

 黒田家のルーツは近江にある。その郷土の英雄であった浅井長政は、かつて義兄、信長を裏切ってまで、父祖(ふそ)からの盟友である朝倉家との『義』を貫き、小谷(おだに)城で散った。

 信長という圧倒的な力に(あらが)い、己の信念に殉じた長政の姿は、今の官兵衛にとって、一つの理想の武士像となっていたのだ。

 

 (名は、長政にすべき……。表向きは、上様より賜った『長』の字に、これまでの主君であった小寺政職(まさもと)の『政』を添えたと言えば、角も立たぬ。世の者も、上様への忠義と旧主への情けと、美談に受け取ろう。

 だが……わしの誠は、別にある。

 この『長政』という名は、かつて義理を通し、あの魔王に真っ向から楯突いて散った、近江の英雄、浅井長政公の魂を継ぐもの……。

 長政よ……。お主の名を呼ぶたび、わしは自らに言い聞かせよう。この乱世、ただ巨大な力に従うだけでなく、静かに牙を研ぎ、己の信ずる道を行けとな。たとえ天下の覇者が相手であろうと、心まで屈してはならぬ……。)

 

 元服の儀を翌日に控えた夜、官兵衛は岐阜から戻ったばかりの松寿丸を私室に呼んだ。岐阜での人質生活から完全に帰還した今の松寿丸はもう大人の凛々(りり)しい顔つきをしていた。

 

 「松寿よ……。明日、お主に授ける名は『長政』じゃ。」

 

 官兵衛が低く、擦れるような声で切り出すと、松寿丸は驚くどころか、その瞳をパッと輝かせた。

 

 「長政……。浅井長政公の御名(おな)にございますね!」

 

 「ほう、なぜ分かった?」

 

 官兵衛が問い返すと、松寿丸は懐かしむように微笑んだ。

 

 「岐阜で半兵衛様に(かくま)われていた頃、夜毎に聞かせていただいたのです。『近江には、上様に真っ向から立ち向かった、誠に清らかで勇猛(ゆうもう)な将がおられた。武士(もののふ)とは、あのお方のようにあるべきだ』と……。半兵衛様は、いつも愛おしそうに、そしてどこか誇らしげに浅井公のお話をなさいました。(それがし)、あのお方のように、義に厚き男になりたいと、ずっと願うておりました。」

 

 官兵衛は虚を突かれ、しばし言葉を失った。自分が土牢(つちろう)で苦しんでいた間、半兵衛は松寿丸に、ただ生きる術だけでなく、黒田の跡取りとして必要な『誇り』を、浅井長政の生き様を通じて授けてくれていたのだ。

 官兵衛は、息子の健康そうな四肢を、射抜くような眼光で見つめた。そこには親としての慈しみと同時に、自由を奪われた己の身体への呪詛(じゅそ)が、黒い影となって一瞬だけ(よぎ)った。だが、彼はその暗い感情を即座に深淵(しんえん)へと沈めた。

 

 「左様か……。半兵衛殿がそこまでお主に……。」

 

 官兵衛の胸の奥に、亡き友への熱い感謝が込み上げる。彼は松寿丸の肩に、今度は躊躇(ちゅうちょ)なく手を置いた。

 

 「良いか長政。お主の命は、半兵衛殿の魂そのものじゃ。亡きあのお方と、この父の誇り、すべてをその背に負うて、筑前(秀吉)殿のためにその武を振るうのじゃぞ。」

 

 長政は、己の名が浅井の(あやか)りであることを聞き、目を見開いた。だが、それを語る父の瞳の奥には、かつての父にはなかった、冷たく燃える『青き炎』が宿っていた。

 

 翌日。元服の儀式は、姫路城の大広間、居並ぶ家臣たちの前で(おごそ)かに行われた。

 

 松寿丸は子供特有の髪型である『稚児髷(ちごまげ)』を解かれ、鋭い小刀で頭頂部を剃り上げる『月代(さかやき)』を作られた。これまで自分を守るための殻であった幼さが削ぎ落とされ、一人の『武士』の輪郭が浮き彫りになっていく。

 

 後見人である『烏帽子(えぼし)親』を務めたのは、羽柴秀吉であった。秀吉は、松寿丸の頭に武士の正装である「烏帽子」を(うやうや)しく被せた。これによって、秀吉と長政の間には、実の親子に近い強力な後見関係が結ばれる。秀吉は、松寿丸の肩を力強く叩き、周囲に響き渡る声で宣言した。

 

 「これなるは上様より偏諱(へんき)を賜りし、黒田の正嫡(せいちゃく)なり! 今日よりは幼名を捨て、黒田官兵衛嫡男、黒田長政と名乗ることを許す!」

 

 「承りましてございます! 本日より黒田長政と名乗り(たてまつ)る! この名に恥じぬよう、上様、そして筑前(秀吉)殿のため、粉骨砕身(ふんこつさいしん)の忠義を尽くす所存にございます! 皆々様、以後お見知りおきを!」

 

 凛とした長政の宣言に、栗山善助や母里太兵衛ら、黒田家の面々から、


 「おお……!」


 という歓喜と武者震いの混じった声が漏れた。筆頭家老の善助は、新しい若殿の誕生を祝い、一斉に平伏した。

 

 「おお……若! 誠に凛々(りり)しきお姿。我ら黒田の家臣一同、今日よりは若殿を新たなる主と仰ぎ、命を懸けてお支えいたしまする!」

 

 儀式を終え、広間を後にする長政の背中を見送りながら、官兵衛は隣の秀吉に視線を向けた。

 

 「筑前(秀吉)殿。これで、ようやく黒田の『牙』が揃いましたな。」

 

 秀吉は満足げに頷きながらも、ふと官兵衛の横顔を見て、微かな寒気を覚えた。

 

 「牙……か……。官兵衛、おみゃあ、あんなに凛々(りり)しくなった我が子を捕まえて、牙とは穏やかじゃねえな。もっと親らしい喜びの言葉はねえのかや。」

 

 「この乱世、己の息子すら天下を掴むための『鋭き刃』として鍛え上げられぬ者に、黒田の家を(まも)る資格はございませぬ。それが……有岡の闇の中で、(それがし)が学んだ答えにございます。」

 

 官兵衛の瞳は、祝福に沸く家臣たちを見ているようで、その実、さらに先の、血も凍るような戦場を見つめていた。

 半兵衛はかつて『信長様は人を駒としか見ていない』と嘆いた。官兵衛はその言葉を胸に刻みつつ、自分は『駒』として扱うのではなく、息子を『自分とともに戦う武器』へと昇華させる道を選んだのだ。

 

 黒田長政。

 

 その名は、信長への忠義という鎖であると同時に、いつかその鎖を断ち切るための、鋭い刃でもあった。官兵衛という怪物が、歴史という巨大な算盤(そろばん)を弾き、息子すらもその計算式の中に組み込んでいく。新しい若殿の誕生という光の裏で、黒田家はより深く、暗い野望の闇へと踏み出そうとしていた。

 最後までお読みいただきありがとうございます。


 松寿丸が口にした『半兵衛様から夜毎聞いた浅井長政の話』。官兵衛が不在の間、半兵衛が何を息子に託したのかが明らかになりました。


 しかし、地獄から戻った官兵衛はもはやただの父親ではありません。息子を『牙』と呼び、天下を掴むための武器として研ぎ澄ませるその姿に、秀吉は頼もしさと同時に拭い去れぬ恐怖を感じ始めます。


 いよいよ物語は運命の『本能寺』へと加速していきます。

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