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第二十八話 飢渇の檻

 三木城攻めが二十二ヶ月を要したのに対し、官兵衛が再設計した『鳥取城攻め』はわずか四ヶ月で勝負を決しました。


 彼が振るったのは刀ではなく、情報網と算盤。

 地獄から生還し『怪物』へと進化した官兵衛が導き出す、最も効率的で、最も凄惨な勝利の方程式。

 『鳥取城の渇え殺し』と呼ばれる歴史的包囲戦の真実を描きます。

 この鳥取城攻めにおいて、官兵衛が振るったのは刀ではなく、目に見えぬ情報の網と算盤(そろばん)であった。

 

 彼は秀吉に対し、兵を動かす数ヶ月前から『兵糧の買い占め』を指示した。若狭などの御用商人を通じ、鳥取周辺の米を相場の数倍という破格の値段で買い占めたのである。

 黄金の輝きに目がくらんだ周辺の農民たちは、冬を越すための備蓄米まで全て秀吉軍に売り払ってしまった。

 官兵衛の軍略は、戦が始まる前にすでに村々の『命』を吸い上げていた。ここに官兵衛の、知的な『怪物』としての真の恐ろしさが現れている。


 そして鳥取城が海に近いことから、毛利水軍による救援が唯一の希望とならぬよう、淡路島や播磨の水軍(安宅氏や小西行長など)を動員。千代川の河口や賀露(かろ)港周辺を完全に封鎖した。


 次なる一手として、秀吉軍は鳥取城を包囲する際、あえて周辺の村々を焼き払った。行き場を失った農民たち約二千人が、城主、吉川経家(つねいえ)の温情を頼りに城内へと逃げ込んだ。

 だが、それこそが官兵衛の描いた『数式』の完成であった。


 元々二千人分しかなかった備蓄米に対し、城内の人数は一気に四千人へと倍増した。官兵衛の計算通り、兵糧は砂時計の砂が落ちるように、あっという間に底を突いたのである。

 

 先の三木城攻めは、陥落まで二十二ヶ月という気の遠くなるような歳月を要した。しかし、怪物へと進化した官兵衛が設計したこの鳥取城の『死の檻』は、包囲からわずか四ヶ月で勝負を決めようとしていた。

 

 案の定、食料は(またた)く間に尽き、城内は三木城を遥かに凌ぐ凄惨な極限状態に陥った。

 

 牛馬や草木を食い尽くすのは序の口であった。最後には、餓死した者や弱りきった仲間の肉を奪い合う『人肉食』まで行われたと伝えられている。

 壁にこびりついた乾いた血と、生気を失い幽霊のように彷徨う兵たちの姿。あまりの惨状に、剛勇を誇った毛利方の武将たちも、戦う前に魂を折られてしまった。

 

 秀吉は当初、吉川経家の武勇を高く評価し、


 「経家殿ほどの将を殺すのは惜しい。家臣や領民が責任を取れば、貴殿の命は助けよう。」


 と助命を提案した。しかし、経家は断固として首を縦には振らなかった。


 「城主である自分が全責任を取り、自分一人の命と引き換えに、皆を助けてほしい。」


 ――その逆提案は、武士としての矜持(きょうじ)に満ちたものだった。

 

 秀吉はその気高さに打たれ、提案を受け入れた。経家は切腹前夜、安芸にいる子供たちへ遺言を残した。

 

 『鳥取城をしっかり守り、自分一人の命で皆を助けた。これを武士の誉れと思ってほしい。』

 

 恨み言一つないその筆致からは、死への恐怖を越え、使命を果たした男の安らぎさえ漂っていた。

 

 天正九年十月二十五日早朝、経家は従容(しょうよう)として座に就き、見事な作法で腹を切り、最期を遂げた。立ち会った秀吉の使者たちさえ、その最期に涙したという。

 

 だが、真の地獄は開城後に待っていた。秀吉は生き残った者たちに炊き出しの粥を与えたが、飢餓状態の体が急激な栄養摂取を拒絶し、『再給餌(さいきゅうじ)症候群(リフィーディング症候群)』によって、救われたはずの多くの者がその場で命を落としたのである。

 

 官兵衛が城門を潜ったとき、目に飛び込んできたのは屍の山であった。もはや性別すら判別できぬほど痩せきった遺体。その四肢は、生きたまま仲間に引きちぎられ、貪り食われた形跡を留めていた。

 中には、息絶えた母親の胸で、その指をしゃぶりながら共に果てた赤子の姿もあった。

 その幼き(むくろ)を目にした瞬間、官兵衛のまぶたが微かに震え、一瞬だけ瞳が閉じられた。

 

 (ふじ……。)

 

 脳裏に、あの土牢で自分を支えた少女の幻影がよぎる。官兵衛の中で、かつての『情』と、今の『怪物の論理』が激しく衝突し、葛藤の火花を散らした。

 

 だが、官兵衛はその痛みを無理やり心の奥底へと押し込んだ。今さら、後戻りなどできぬ。彼は敢えて心に鬼を宿す道を選んだ。

 

「筑前(秀吉)殿。これにて我が軍の損害は、皆目(かいもく)ございませぬ。力攻めをすれば数千の兵が露と消えたはずの堅城を、一滴の返り血も浴びず手中に収めました。……これが、(それがし)の選んだ戦の道にございます。」

 

 血の気の引いた顔で城内を見渡していた秀吉が、重い口を開いた。

 

「お、おう……官兵衛。おみゃあの言う通りだわ。一兵も損なわずにこれを落とすたあ神業だがや。なれど……槍で突くより、腹を空かせる方がよほど残酷な戦になるもんだわな。わしも多くの修羅場を見てきたが、これほど静かで、これほど恐ろしい勝ちは初めてだわ。」

 

 秀吉は官兵衛を振り返った。その瞳には、頼もしさと、隠しきれぬ畏怖が混じり合っていた。

 

「おみゃあの知恵は、わしを天下へ押し上げてくれる。なれど、あまりに鮮やかすぎて、時折わしは背中が寒うなるがや。官兵衛、これからもその知恵、わしのためだけに使うてちょうよ。……約束だわな。」

 

 官兵衛は秀吉の眼を見なかった。ただ、はるか遠く、冬の因幡(いなば)の山並みを見つめていた。

 

「経家殿の義は天晴なれど、飢えの前には武士の意地も、人の心も消え失せる。この戦に、美談などございませぬ。ただ『勝利』という結果のみ。筑前(秀吉)殿、次なる備中でも、この『静かなる勝利』こそが、我らに天下を掴ませる道にございますぞ。」

 

 秀吉ですら背筋を凍らせたその冷徹さ。

 官兵衛が見据えていたのは、秀吉でも信長でもなく、この凄惨な殺し合いの果てにある、はるか先の『戦無き世』であった。

 

 有岡の土牢で情報の遮断が死を意味すると知った彼は、今や独自の情報網を網羅していた。米の買い占めを可能にしたのは、闇を駆ける忍びたちによる正確な市場調査と、敵の動揺を(あお)る調略の成果であった。

 次第に官兵衛の耳には、日の本のありとあらゆる(きし)み、野心、そして隠された真実が、風に乗って届くようになっていた。官兵衛という怪物が、歴史という巨大な算盤(そろばん)を弾き始めたのである。

 最後までおよみいただきありがとうございます。

 

 一滴の血も流さず堅城を落とした官兵衛の軍略。しかし、開城した門の先に広がったのは、人としての理性を失った極限の地獄絵図でした。


 母親の骸に縋る赤子の姿に、かつての情けをねじ伏せ、鬼になる道を選んだ官兵衛。その姿に、天下人への道を歩む秀吉すらも本能的な畏怖を覚えます。


 ここから官兵衛の壮大な計画が始まっていきます。

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