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第二十七話 影の胎動

 有岡の土牢から生還した官兵衛を待っていたのは、凄惨を極める三木城包囲戦のクライマックスでした。

 地獄を潜り抜けた軍師は、以前の『知略の麒麟児』とは別の何かへと変貌を遂げていきます。


 信長亡き後の世界を見据え、水面下で組織される『影の軍団』。

 秀吉という太陽の裏側で、冷徹な『数式』を用いて敵を追い詰めていく官兵衛。


 新たな時代の幕開けを予感させる一話、ぜひご覧ください。

 黒田姓へと戻し、藤巴の家紋の変更の後、官兵衛が表立って最初にしたことは、祈ることでも、失った健康を嘆くことでもなかった。

 静まり返った自室で彼が最初に行ったのは、頭の中で『算盤(そろばん)を弾くこと』であった。

 有岡の土牢で腐りかけた右足は、もう以前のように前線で槍を振るうことを許さない。しかし、不自由な足を引きずり、鋭い眼光で地図を睨む彼の頭脳は、地獄の暗闇を経て、より緻密で、より残酷な『勝利の数式』を導き出す怪物へと変貌を遂げていた。

 

 天正八年一月。播磨の空を重く覆う冬雲の下、播磨の有力大名、別所長治を討伐するための三木城攻めは、その凄惨なクライマックスを迎えようとしていた。

 

 この別所長治も、一人の中途半端な『裏切り』者であった。かつては信長の旗振りに従いながらも、羽柴秀吉の傲慢な態度や、織田家の非情なやり方に反発。突如として背後の石山本願寺、毛利氏と結び、織田家を真っ向から裏切ったのである。

 

 秀吉は、亡き竹中半兵衛の遺志を継ぎ、この強固な三木城を力攻めせず、徹底した『兵糧攻め』を採用していた。城の周囲に数十もの砦を築き、一粒の米すらも城内へ入れぬよう包囲網を完成させていく。それは、半兵衛が死の直前に遺した『兵糧攻めを継続せよ』という呪いのような方針を、秀吉が忠実に守った結果であった。

 

 有馬での療養を終えたとはいえ、未だ自力で歩くこともままならぬ官兵衛は、栗山善助らに支えられ、担がれるようにして平井山の陣所へと辿り着いた。その姿を見た秀吉は、諸手(もろて)を挙げて歓迎した。

 

 「おお!官兵衛、よう戻った!見ておれ、あの三木城も、ようやく落ちる時が来たわ。半兵衛が命を削って築いたこの包囲網、おみゃあの知恵が加わって、やっと実を結んだがや。」

 

 秀吉は官兵衛の細くなった肩を抱き、快活に笑う。

 

 「長治は潔く、自分の首と引き換えに兵の命を救うと言うとる。わしもこれ以上、民を餓えさせるのは忍びねえ。これからはおみゃあと二人、この播磨の土を二度と血で汚さんような、そんな光り輝く世を創っていこうではおへんか。」

 

 秀吉の言葉は、相変わらず太陽のような熱に満ちていた。しかし、その『陽』の光に照らされる官兵衛の横顔には、以前のような純粋な感激はなかった。

 

 官兵衛は、城から流れてくる異様な匂い――馬を(むさぼ)り、壁の土を食らい、最後には人の肉すら奪い合う絶望の死臭――を、冷徹に嗅ぎ取っていた。

 

 「筑前(秀吉)殿。有岡の土牢で、(それがし)は聞き続けました。日に日に細うなっていく家臣たちの声、わずかな蓄えを奪い合う醜き争い、そして……最後にはすべてが枯れ果てた絶望の沈黙を……。」

 

 官兵衛の声は、凍った湖面のように静かだった。

 

 「もはや、槍を振るう必要などございませぬ。人は、胃袋から死んでいく……。それが最も確実で、最も静かな勝利にございます。あの日、あの闇の中で、(それがし)は教えられました。戦とは血を流すことではなく、生の糧を断つことなり。これこそが、この官兵衛が地獄から持ち帰った、唯一の答えにございますれば。」


 二年近くに及んだ三木合戦は、一月十七日、城主・別所長治の自害によって幕を閉じた。

 

 『自分の命と引き換えに、城兵や領民の命を助けてほしい。』

 

 その条件を呑み、一族と共に自刃した長治を、周囲の武将たちは「武士の鑑」と涙して称えた。だが、その喧騒から離れた場所で、官兵衛は新しく掲げた『藤巴(ふじどもえ)』の旗を冷ややかに見上げていた。

 

 (死して英名(えいめい)を残すなど、(やす)きこと……。生きて(はずかし)めを受け、泥を(すす)ってでも新しき世を創る……。長治殿、お主にはその覚悟が足りなんだ……。)

 

 官兵衛は、この三木の勝利を祝う宴の裏で、密かに影の軍団を組織し始めていた。

 善助や太兵衛ら、表で槍を振るう、後世『黒田二十四騎』と呼ばれる精鋭の家臣たちを筆頭に、情報を収集し、人の心を操る『(くさ)』や『乱波(らっぱ)』と呼ばれる隠密部隊――いわゆる『忍者』を本格的に活用し始めたのである。

 

 陣屋の奥、深夜の静寂の中で、官兵衛は数人の影に向かって下知(げじ)を述べた。

 

 「良いか……。戦とは、槍を合わせる前に、勝負の九分(くぶ)は決まっておる。お主たちの仕事は、敵を斬ることではない。敵の『心』を盗み、わしの元へ届けることよ。」

 

 杖を置き、闇の中に座る官兵衛の目は、秀吉の前で見せる忠義の臣のそれではなく、蛇のように鋭く獲物を狙う怪物の目であった。

 

 「有岡の闇の中でわかったわ。目が見えぬ者は、這いつくばって死ぬのを待つのみ。わしの『目』となり、この日の本の隅々まで見通して参れ。信長公が築くこの天下、その裏側にある歪みを、一瞬たりとも見逃すな。」

 

 この時組織された影の軍団は、後に黒田家が福岡藩に移ってからも、軍学の一翼として『中条流』や『黒田藩伝忍術』として幕末まで密かに継承されていくことになる。


 

 三木を落とした秀吉・官兵衛軍が次に立ち向かったのは、因幡の鳥取城であった。

 ここで官兵衛は、三木での経験をさらに研ぎ澄ませた戦術を展開する。後に歴史上、『鳥取城の渇え殺し』と呼ばれる、三木をも上回る地獄を現出(げんしゅつ)させたのである。

 三木城攻めは始まってから陥落まで二十二か月を要した事から、土牢で怪物へと進化した彼は鳥取城においては更なる時間の短縮と効率化を仕掛けた。

 

 「殿、これは無慈悲にあらず、慈悲にございます。一刻も早く絶望を知れば、その分だけ、無駄な抵抗で死ぬ者は減りまする。」

 

 自らが味わった『飢えの恐怖』を最大の武器として使い、城主、吉川経家(つねいえ)を死の淵へと追い込んでいく。官兵衛の指先が算盤(そろばん)の珠を弾くたびに、城内の一つの命が消えていく。

 秀吉の天下を確固たるものにするため、そして信長亡き後の『次なる時代』を自らの手で支配するために。


 光の中を行く秀吉の影で、官兵衛は冷徹な数式を解き続けていた。

 彼が地獄から持ち帰ったのは、平和への願いではなく、平和を実現するための『絶対的な力としての軍略』であったのだ。

 

 

 

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 

 三木城の『干殺し』。

 官兵衛は自ら味わった『飢え』を最大の武器と変え、最も効率的で残酷な勝利と確信するようになりました。そこで学んだ事を活かし、次なる『鳥取城』ではさらに磨きをかけた兵糧攻めを行うことになります。


 表の顔である善助、太兵衛、九郎右衛門たちと、裏で胎動する『影の軍団』。

 この二重の武力が、後の黒田家を支える大きな柱となっていきます。


 戦線復帰した官兵衛は播磨平定の更なる一手を打っていきます。

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