第二十五話 だし
天正七年、冬。
戦国史上、最も凄惨と言われる『有岡城一族処刑』が執行されました。
尼崎、そして京都、六条河原。降り積もる雪を鮮血に染めて散っていったのは、非業の運命に翻弄された女子供たちでした。
その中心にいた一人の女性、だし。
かつて多くの文豪たちがその最期を描こうと筆を揮ってきた、歴史に刻まれた伝説のシーンです。
有岡の土牢という地獄から生還した官兵衛が、その悲劇の報せを聞いたとき。
彼の心に灯ったのは、弔いの祈りか、それとも魔王への復讐心か。
Web小説という限られた文字数の中で、彼女の気高さと官兵衛の変貌を魂を込めて描ききりました。
それから約一ヶ月あまりが経過し、天正七年も終わろうとしていた時、信長は有岡城に残された一族と家臣の妻子に対して、歴史上、類を見ない苛烈な処刑を命じた。戦国史上でも稀に見るほど残酷な、だしをはじめとする荒木一族全員の処刑である。
第一段階として有岡城の侍女・妻子約百二十名である。彼女たちは尼崎の『七曲り』という場所で、磔にされた。 命乞いをする者、泣き叫ぶ子供の声に見物人は同情の涙を流していたが、その願いは信長には届かない。鉄砲や弓の的にされたり、槍で突き殺されたり……断末魔の叫び声を上げながら一人残らず処刑されたのである。
信長は、有岡城から逃げ出した村重が籠もる尼崎城から見える場所をわざと選び、村重に自分の家族が殺される様を敢えて見せつけようとした。信長自身もこの凄惨な光景を、馬に乗ったまま、間近で眉ひとつ動かすことなく検分したのだ。
次なる第二段階は下級武士の妻子や奉公人、約五百名。尼崎の処刑よりもさらに凄惨だったのが、家臣の家族である。 彼らは四軒の農家に押し込められ、周囲に草木を積み上げられた。
信長はそのまま家に火を放ち、生きたまま焼き殺したという。逃げ出そうとする者は外から槍で突き戻され、その叫び声は数里先まで聞こえたと言われている。
最後は荒木村重にもっとも近い近親の三十六名。『だし』を含む村重の近い親族たちは、京の六条河原へ送られた。
天正七年十二月十六日。京の六条河原は、凍てつくような冬の風が吹き抜けていた。そこには主である信長の姿はなかった。ただ、彼が下した『合理という名の断罪』だけが、冷徹に執行されるのを待っていた。
四台の牛車に揺られ、引き回される一族の女性たち。その中で、だしはひときわ異彩を放っていた。汚れなき白衣をまとい、静かに髪を整えた。その肌は冬の光を透かすほどに白い。見物人たちは、そのあまりの美しさに息を呑み、同時に彼女を待つ残酷な運命に涙し、鼻をすする音がところどころで聞こえていた。
だしの胸元には、密かに握りしめた小さな十字架があった。
(デウス様……どうか、この者たちの、命を奪う罪をお許しください。そして……尼崎の殿にも、安らかな眠りを与えたまえ……。)
処刑場に到着すると、彼女は取り乱すどころか、まるでお気に入りの庭を散歩するかのように静かに歩を進めた。
雪を踏みしめる音さえ、どこか清らかに響くほどの静寂が、その場を支配していた。
目の前では、共に過ごした侍女や親族が次々と刃に倒れていく。鮮血が雪を赤く染めていく地獄絵図の中で、だしの瞳は、はるか彼方の天界を見つめているようだった。
その後だしは処刑人に連れられながら、尼崎の空を最後に見上げた。その先には自分を捨てて逃げた夫、村重がいる。怒りも、恨みもない。ただ、彼女の中にある信仰が、すべてを『愛』へと昇華させていた。
その後静かに座り、辞世の句を残した。
磨くべき 心の月の くもりなば 冥土の道に 灯火もなし
心を月のように磨いておかなければ、冥土の暗き道に灯火はない。彼女は最期の瞬間まで、己の魂を曇らせまいとしたのだ。その健気なまでの気高さは、今に伝わるこの歌に深く刻まれている。
だしは処刑人に向かって、ふわりと微笑みを向けた。
「長らくお待たせいたしました……。どうぞ、迷わずに……。」
その清らかな声に、熟練の処刑人の手がわずかに震えた。
まるで処刑場に舞い降りた聖母のように、どこまでも凛として美しかった。月のように澄み渡った心で、可憐な笑みを浮かべながら、彼女は自らそっと首を差し出した。小さな声でだしは最期まで祈りを捧げていた。
「アベ・マリア、ガラッサ・プレナ、ドミノス・テコン……(恵みに満ちたマリア、主はあなたとともにおられます……)」
刃が振り下ろされた瞬間、だしの唇は小さく「アメン」と動いた……。
寒空の中、見物人の嗚咽を最後に耳にしながら、だしは最期まで笑顔で旅立っていったのである。
その首が地に落ちた後も、だしの表情には柔らかな微笑みが残っていたという。執行した処刑人たちは、そのあまりの神々しさに、返り血を浴びた己の刀を握る手さえ震わせ、立ち尽くした。
この処刑の知らせが姫路に届いたのは、それから数日後のことだった。
官兵衛はこの話を聞いた時、戦慄を覚えた。不自由になった足を見つめながら、静かに十字を切って思いを巡らせる。 自分が必死に謀反を思いとどまるよう説得しようとした村重が、妻子を捨てて逃げ、その結果としてあの気高く美しかった『だし』が、泥まみれの河原で首をはねられた……。
(だし殿も……幼き者たちも……皆……殺されたか……。あの男は、そこまでするのか……。信長という男は、まさに神仏をも恐れぬ魔王よ……。一歩違えば、わしの松寿もあの河原で首を打たれていたのだな……。
それに引き換え、荒木殿……。お主はどこまで卑怯な男よ……。ふじのみならず、一族の命までも……。お主が一人で逃げ出さねば、これほどの血は流れなんだ……。お主が守ろうとした『命』のせいで、どれほどの『命』が消えたことか……。
デウスよ……。どうか、散っていった者たちの魂に安らぎを……。)
官兵衛はだしの迷いなき救いのために祈った。
「パアテル・ノステル、キ・エス・イン・セリス、サンティフィセトウル・ノメン・トウウム……(天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように……)」
「アベ・マリア、ガラッサ・プレナ、ドミノス・テコン……(恵みに満ちたマリア、主はあなたとともにおられます……)アメン」
官兵衛は、思うように動かぬ膝の痛みを噛みしめながら、震える指で十字を切った。その祈りは、死者への弔いであると同時に、自分を地獄から生かし戻した運命への、血を吐くような問いかけでもあった。
地獄から生還した官兵衛の中には、静かながら二度と消えぬ青い炎が揺らぎ始めていた。
幽閉によって官兵衛は一生足が不自由になり、頭髪も失った。しかし、この『肉体の欠損』が、彼を冷徹な軍略家から、より深く、恐ろしいほどの精神力を持つ怪物へと変貌させていく。死の淵から戻った彼は、もう今までの官兵衛ではなかったのである。
その夜、官兵衛は自室にて、半兵衛の軍配を手に取っていた。軍配を握る指先が、怒りに震えているのではない。あまりの決意の重さに、岩のように固まっていた。
そして、静かに呟いた。
「半兵衛殿……。わしは決めた。あの魔王を、必ずやこの手で……。お主が守ってくれた松寿が笑って暮らせる世を、わしが創ってみせる……。」
それは、祈りではなく、誓いだった。そして、呪いでもあった。
官兵衛の目に、もう迷いはなかった。それは半兵衛から託された思いとだしの無念が重なり、官兵衛が『怪物』に生まれ変わった瞬間だった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
『第二十五話 だし』いかがでしたでしょうか。
有岡城の落城に伴う荒木一族の処刑は、司馬遼太郎先生や遠藤周作先生といった偉大な先人たちが、それぞれの視点で描き続けてきた大きなテーマです。
今回このような重厚な歴史的問題に挑むにあたり、だしの持つ『聖母のような精神性』と、それを受け取った官兵衛が『怪物』へと進化する過程を、限られたスケールで構成することに全力を注ぎました。
だしの最期の祈りと、官兵衛の誓い。
二人の魂が共鳴した瞬間、かつての軍師官兵衛は死に、天下を見据える新たな怪物が誕生しました。
この悲劇を経て、物語は大きな転換点を迎えます。




