第二十四話 疑念
信長との対面、そして嫡男、松寿丸への『偏諱』。
一見すれば官兵衛への疑念は晴れ、最大級の恩賞が与えられたかのように見えました。
しかし、官兵衛の心に宿ったのは、かつての忠誠心ではありませんでした。
命を『駒』としか見ぬ信長の合理性と、その陰で散っていく小さき命たちの悲劇。
揺れる輿の中で月を見つめ、官兵衛は悟ります。
自分が生きる道は、信長の盤上ではない。
亡き友、竹中半兵衛が託した『遺言』の真意が、静かに官兵衛の血を燃やし始めます。
官兵衛は怒りのあまり、ありきたりの返答しかできなかったが、すぐさま横にいた秀吉が『人たらし』の才能を発揮して官兵衛の心を汲み取り、機転を利かせた。
「上様! 官兵衛が嫡男に、上様の大事なお名前を頂戴できるとは、もったいなき極み、恐悦至極に存じまする! これにて官兵衛の忠義も、いよいよ報われようというもの。
また中将(信忠)様が居城の岐阜にて松寿丸をお育ていただけることも、ありがたき幸せ!
上様、恐れながらあと一つお願いの義がございます。」
信長は無言だった。秀吉は今しか無いと思い、言葉を続けた。
「さきほど官兵衛より聞きました。荒木側の敵将ながら官兵衛の世話をし、最後まで命を守り抜いた加藤又左衛門とその嫡男、吉成という父子がまだ有岡の城におります。荒木一族の処罰の折、この父子だけは命をお助け下さりませぬか……。官兵衛の命の恩人でござりますれば!」
信長はその冷徹な眼で秀吉と官兵衛を交互に見下ろして応えた。
「よかろう。蘭丸、両名の名を控えよ!」
信長は直感的にこの男だけは敵に回してはいけないと感じたのか、珍しく聞き入れた。
有岡の土牢から這い出てきたこの男に得体の知れぬ『恐怖』を感じたからである。
それだけ言うと、鷹が羽ばたくような鋭さで立ち上がり、奥へと去っていった。その背中を見送りながら、一同は一気に緊張から解き放たれ、深い溜息を漏らした。
広間の空気は、主が去った後もなお、凍りついたままのように冷たかった。
官兵衛は、崩れそうになる体を善助に預けながら秀吉に礼を述べた。
「筑前(秀吉)殿……。先ほどは……感謝の極み……でござりました。」
「官兵衛よ、案ずるな。官兵衛の命を救うたは、わしの命を救うたも同然よ。その加藤又左衛門に、わしも早う会うてみたいわ。
直に会うて、この手で肩を叩き、礼を言わねば気が済まぬがや。
ま、とにかく、これで官兵衛の復帰がお許しになったがや。おみゃあも休む間ものう京都までよう来たなあ。辛かったろう、すまなんだなあ。
後はこのわしが上手いことやって、上様の機嫌を取っておいたるがや。おみゃあは何も心配せんでええ。わしとおみゃあの仲じゃねえか、な?」
秀吉は官兵衛の細くなった肩を力強く叩き、いつもの陽気な顔で笑ってみせた。その言葉に嘘はないだろう。秀吉という男は、こうして人の懐に入り込み、何があっても仲間を守る男だ。
官兵衛は秀吉に深々と頭を下げ、少し療養してから三木城の陣営に加わるという事を約束し、秀吉と別れた。秀吉の太陽のような温もりは一年前と変わらなかった。
だが、官兵衛の心は今までのようには晴れなかった。秀吉の優しさに救われながらも、加藤又左衛門の助命も受け入れられても、脳裏には信長のあの無機質な、命を『数』としか見ていない瞳が焼き付いて離れない。
(筑前(秀吉)殿……。その『人たらし』ですら、あの魔王の狂気をいつまで繋ぎ止めておけるのか。そして、わし自身も……いつまでその仮面を被り続けられるか……。)
有岡城を出てから目まぐるしいほどのスケジュールをこなした。信長にも張りぼての忠義を見せることに成功した。
官兵衛は輿に乗せられると、疲労から間もなく眠りに落ちた。
ほどなくして目を覚まし、官兵衛は輿の隙間から夜空を眺めた。
晩秋の月を揺れる輿の中から見つめ、官兵衛は様々な思いを馳せていた。
(一文字……か。それだけで済ませるつもりか、あのお方は。わしの苦しみも、松寿の恐怖も、半兵衛殿の魂すら、一文字という対価で帳消しにできると思うておられるのか……。)
官兵衛は、有岡の土牢で共に過ごした少女、ふじを思い出した。
ふじは自らのか弱き命を賭して官兵衛の命を繋ぎ、そして散っていった……。あの穢れなき笑顔は今でも脳裏から離れない……。
一方で信長は、身勝手な不信で松寿丸を殺そうとし、それを『名前の一文字をやる』という軽い代償で清算しようとしている。そこには『情』も『慈悲』もない。あるのは巨大な『意志』と、それに従うか否かという二択のみ。
(わしは織田家を裏切るまいと一年近く、地獄の土をなめ続けた。にもかかわらず、あの男は勝手にわしを裏切り者と決めつけ、松寿を亡き者にせんとした。その詫びがただ、『長』の文字。人の命をどこまで軽んじておるのか……。)
官兵衛はふと、村重の正室、だしの顔を思い出した。武骨な村重とは対照的に、儚げな美しさを湛えた、出会った時はまだ二十歳にもならぬ若妻。
彼女もまたふじと同じく、キリスト教の教義に魅了され、洗礼を受けていた。いつも家族の息災と日の本の安寧を願い、静かに祈る姿が記憶に残っている。
有岡の幽閉中、彼女に会うことはなかったが、風の噂で彼女が今も城に残されていることを知った。
(だし殿……お主の祈りは、あの魔王には届かぬ。荒木が尼崎で意地を張れば張るほど、信長様の刃は、城に残されたお主たちへと向けられるだろう。比叡の山で、長島で、越前で見せたあの容赦なき刃が……。慈悲を乞うたところで、あの男は『合理』という名の斧で、祈りごと首を撥ねる男ぞ……。)
かつて官兵衛が守ろうとした『平和』は、信長の提示する『秩序』と同じだと思っていた。だが今、その認識は音を立てて崩れ去っていた。
官兵衛はこれまで戦において、最終的には首謀者のみ責任を取らせ、無駄な血を流す必要は無いと考えていた。これにより自軍の拡大化も可能だからだ。
ところが、信長はこれまで宗教勢力との戦い、つまり比叡山延暦寺の焼き討ち、伊勢長島や越前の一向一揆の征伐において、類を見ない程の『大量虐殺』を敢行してきた。相手が宗教勢力であるという理由もあるかもしれないが、信長の言う『根切り』が今回、荒木一族に課せられようとしていた。
この方針に官兵衛は頷けるはずもなかった。
(わしはどうにか生き残った。だが、この先にあるのは、あの男の『駒』として消費されるだけの日々なのか。戦に勝ち、城を奪い、その果てに待つのは、また別の地獄ではないのか……。)
揺れる輿の暗がりで、官兵衛の瞳に冷徹な光が宿った。
信長という存在が、『仰ぎ見るべき主君』から『いつか越えねばならぬ、あるいは終わらせねばならぬ絶大な暴力』へと変質し始めたのである。
軍師として再起する官兵衛の胸には、もはや盲目的な忠誠はなかった。あるのは、この不条理な乱世を、いかにして自分たちの手で塗り替えるかという、静かな、しかし苛烈な野心であった。
官兵衛は、恩人、竹中半兵衛が病床で遺した言葉の意味を、ようやく理解し始めていた。
『もし、天下を変える時が来たなら……。それは、官兵衛殿にしかできんことだ。……頼んだぞ。』
(あの半兵衛殿の遺言……あれは、もしかして……この歪んだ世そのものを、根本から……。もしやあの男を……。)
官兵衛はそのような思考を、巡らしながら再び眠りについた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
信長が与えた『長』の一字。それは当時における最高の名誉でしたが、一年間の暗闇を生き抜いた官兵衛にとってはあまりにも『安い代償』に映ったことでしょう。
官兵衛の中で、信長が『仰ぎ見る主君』から『終わらせるべき暴力』へと変わる瞬間を描きました。
半兵衛の遺言が単なる励ましではなく、ある種の予言として官兵衛を動かしてく。歴史の歯車が大きく回り出す回となりました。
もはや以前の彼ではありません。その知略は誰のために振るわれるのか。




