第二十三話 偏諱(へんき)
松寿丸との再会からわずか二日。
官兵衛のもとに届いたのは、秀吉からの『厳命』でした。
『二十八日朝までに、変わり果てたその姿を信長様に見て、忠義を証明せよ。』
不自由な体を引きずり、二泊三日の強行軍で京都へ向かう官兵衛。
そこで彼を待っていたのは、深い赤色のマントを羽織った『第六天魔王』織田信長でした。
松寿丸を殺そうとした過去を『水に流せ』と言い放つ信長。
最高の名誉とされる偏諱の裏側に、官兵衛が見た真実とは……。
官兵衛は嫡男松寿丸と再会を果たしてから二日後に秀吉から一通の書状を受け取った。そこには、官兵衛の生存を涙ながらに喜ぶ言葉とともに、一つの厳命が記されていた。
『急ぎ啓し候。
今般、貴殿無事救い出され候段、早馬にて届き、落涙の至りに存じ候。貴殿の忠節を信じ、今日まで待ちわびており候。
然れば官兵衛殿、休む間もなく誠に申し訳なき次第なれど、遅くとも今月二十八日の朝までに、京の入り口、東寺付近へ到着致されるべく候。
某も二十八日早朝には軍勢を率い、東寺にて貴殿を迎え、直ちに共に妙覚寺の上様の元へ向かう所存に候。
上様の京滞在は二十八日までと聞き及び候。この機を逃せば、拝謁の機会を逸することに候。
貴殿の今の変わり果てたる御姿、不自由になられたるその足こそが、何よりの忠義の証に候。それを今、京にて諸将の居並ぶ前でご覧に入れれば、上様も御自身の非を認められ、二度と官兵衛を疑われることはあるまじく候。
これは貴殿の今後のため、引いては半兵衛が命を懸けて守り抜きたる松寿の将来のためと御承知下されたく候。
御身は未だ辛う御座ろうが、ここは踏ん張り時に候。二十八日、東寺にて再会致したく、道中無事の到着を心待ちに致し候。
恐々謹言。
天正七年十月二十三日 羽柴筑前守秀吉(花押)
小寺官兵衛殿』
要は信長に謁見するために京都、妙覚寺まで来て忠義を証明するように。という内容である。
拒否する理由はなかった。軍師として戦線へ復帰するためには、避けては通れぬ儀式である。官兵衛は信長への負の感情を心の奥底に封じ込め、京へと向かう支度を急がせ、二十五日には姫路を発った。揺れる輿の中で不自由な足の痛みに耐え、西国街道を二泊三日の急ぎ足で進んだ。
十月二十八日。秀吉と官兵衛は、京都、東寺にて約一年ぶりの再会を果たした。
「おおおお! 官兵衛! 官兵衛か! よう……よう生きて戻ってきおったなあ!」
輿から現れた官兵衛の惨状を目にした瞬間、秀吉の声が震えた。持ち前の『人たらし』の才覚でさえ隠しきれぬほどの衝撃が、その顔を走る。一年という歳月は、壮健だった官兵衛の体から若さを奪い去り、深い傷跡だけを刻みつけていた。
「すまなんだ、わしがもっと早う助け出してやりゃあ良かった……!」
秀吉の言葉に嘘はなかった。だが、その瞳の奥には、官兵衛を政治的な道具として使わざるを得ない己の不甲斐なさへの、深い悔恨が滲んでいた。官兵衛は弱々しく平伏し、絞り出すように答えた。
「筑前(秀吉)殿……。不甲斐なき……姿をさらし……長らくご心配を……おかけ……いたしました。なれど、この通り、命だけは……デウスに……お守り……いただきました。」
官兵衛が弱々しく平伏すると、秀吉はその手を壊れ物を扱うように、しかし固く握りしめた。その掌の薄さと冷たさに、秀吉は再び唇を噛んだ。
「馬鹿を申せ! 命があればそれでええ。おみゃあの知恵がありゃあ、足の一本や二本、わしが杖になってでもどこへでも連れてったるわ! さあ行こう、上様がお待ちの妙覚寺へ!」
妙覚寺の広間。緊張の糸が張り詰める中、深い赤色のカパ(マント)を羽織った織田信長が現れた。その姿はまさに『第六天魔王』。信長は秀吉と官兵衛を無機質な眼差しで一瞥すると、南蛮渡来のビロードを敷いた椅子に深く腰を下ろした。
付き添った栗山善助や母里太兵衛ら家臣たちは、信長の放つ圧倒的な威圧感に気圧され、地に額を擦り付けるようにして震えていた。
「上様、官兵衛、ただいま戻って参りました! ご覧くだされ、この不自由になった足……これこそが、上様への変わらぬ忠義の証にございます!」
秀吉が必死に声を張り上げる。信長はしばし官兵衛を凝視した。だが、変わり果てた姿を前にしても、眉一つ動かさない。
やがて甲高い声で放った。
「官兵衛!このたびは大儀であった。よう戻った。おみゃあの忠義、しかと見届けた!」
「は! 恐悦……至極に……存じます……。」
官兵衛の声は床に這うほど低かった。信長は、官兵衛が自分を恨んでいないかを値踏みするように言葉を継いだ。
「官兵衛、松寿丸のことじゃ。あの半兵衛の奴……わしの目を眩ませ、この信長をまんまと謀ったまま、あの世へ逃げおった。天晴よ。反吐が出るほどの軍師よな!」
信長は、自分の誤判断を棚に上げ、死んだ半兵衛を独特な表現で称賛することで場を収めようとしていた。
「松寿丸は後に信忠のもと、岐阜で預かる。元服の折にはわしの名から一字を与える。これで水に流してはくれんかや、官兵衛。」
織田信長の『長』の字を授かる――『偏諱』を賜る。それは当時、一門に準ずる扱いを受ける最高の名誉であった。
だが、官兵衛の背筋を走り抜けたのは、名誉による歓喜ではなく、氷のような冷気だった。
(水に流せ……?)
信長の言葉には、松寿丸を殺そうとした罪悪感など微塵もなかった。ただ、足りなくなった将棋の駒を補充し、貸し借りなしにするための事務的な提案。そして何より、再び息子を人質として差し出せという宣告……。
官兵衛の爪が掌に深く食い込み、じわりと血が滲んだ。
(この男は、命を何だと思っている……。どれほどわしがあの暗闇でもがき、絶望の縁を彷徨ったか、分かっておるのか……?)
激しい怒りが噴き出しそうになったが、官兵衛は必死に顔を伏せ続けた。今、顔を上げれば、その瞳に宿る殺意を信長に見抜かれてしまう。
「過分なる……お言葉……身に余る……光栄に……存じます……。」
震える声で礼を述べる官兵衛を、秀吉が案じるように横目で見ていた。
官兵衛はこの時、悟った。信長という男は、忠義を『理屈』で買い叩く男なのだと。そして、自分の中に芽生えたこの黒い感情だけは、生涯消えることはないと……。官兵衛は静かに、しかし確実に、信長とは違う『別の未来』をその瞳の奥に描き始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
信長から一字を賜る『偏諱』は、当時の武士にとってこの上ない名誉でした。しかし、一年間の地獄を見てきた官兵衛にとって、それはもはや名誉などではなく、命を『駒』としか見ない男の無慈悲な通告に過ぎませんでした。
掌に食い込む指先、滲む血。
信長への殺意を押し殺しながら平伏する官兵衛。
忠義を『理屈』で買い叩く。
この悟りこそが、後に天下を揺るがす天才軍師、黒田官兵衛の未来を大きく変えていくことになります。




