第二十一話 不滅の二兵衛
死の淵から生還した官兵衛を待っていたのは、残酷な知らせでした。
稀代の天才軍師であり、官兵衛の唯一無二の朋友、竹中半兵衛の死……。
自分を信じ、命を懸けて松寿丸を守り抜いてくれた友はもうこの世にはいません。
喪失感に打ちひしがれる官兵衛の前に現れたのは、半兵衛の従兄弟、竹中重利。
彼が携えてきたのは、半兵衛の『魂』そのものでした。
二人の天才軍師の運命が一つに重なり、新たな伝説が動き出します。
光との再会の喜びも束の間、官兵衛の心には一つの影が差し込んでいた。自分を信じ、命懸けで松寿丸を救ってくれたはずの盟友にに礼を述べねばならない。
官兵衛は、震える声で光に尋ねた。
「そうじゃ……半兵衛殿は……今どこ……おられる……。一刻も早う会うて……あまたのお礼を……言わねば……。あの御仁がいなければ、黒田の血は……絶えておった……。」
光は、一瞬だけ視線を泳がせ、言い淀んだ。その気まずそうな沈黙が、官兵衛の胸を鋭く刺す。光は意を決したように、真っ直ぐに夫の瞳を見つめて口を開いた。
「殿……。お辛いことを申し上げねばなりませぬ。半兵衛様は、この六月……三木の陣屋にて、静かに息を引き取られました。」
「な……、なんとした事……。」
官兵衛の思考が白く染まり、時が止まった。信じられなかった。あの、涼やかな風のような軍師が、自分を待たずに逝ってしまったなど。呆然と固まった官兵衛の痩せこけた手を、光は温かく包み込みながら続けた。
「あのお方は、おそらくご自身の死期を悟っておられたのでしょう。美濃のご自身の領地にて療養されておりましたが、最期は戦場で死ぬるべきと決められ、肺の病を背負いながら三木の陣屋までお越しになり……。」
「半兵衛……殿……。」
官兵衛はその有様を難なく脳裏で描いた。いかにも半兵衛らしい判断だからである。光は続けた。
「上様を謀り、松寿の処刑を自ら願い出たと見せかけ……誠は、美濃にて、誰にも知れぬよう密かに匿うてくださりました。
殿……。半兵衛様は、殿がいつか必ず、誠の心のまま、戻って来られると……。最期の最期まで、一滴の疑いもなく信じ抜いておいででした。」
「……。」
官兵衛の脳裏に、かつて共に戦場を駆け、語り合った半兵衛の穏やかな笑顔が鮮烈に蘇る。そして、その幻影が、遺言のような重みを持って語りかけてきた。
(官兵衛殿。お主の才は、この乱世を終わらせるために天から授かったもの……。もし、天下を変える時が来たなら……。それは、官兵衛殿にしかできんこと……。わしは、一足先に天から見守らせてもらうでな……。)
その半兵衛の言葉が脳裏に響き渡り、後悔の念が、官兵衛の喉元までせり上がる。
(わしがもっと早うあの地獄を抜け出せておれば……。半兵衛殿、あの言葉が遺言になってしもうた……。お主の知略、まだまだわしは授かりたかった。お主と共に、新しい世を創りたかった……。)
屋敷に辿り着いてほどなくしてから、侍女が部屋を訪れ、控えめな声で告げた。
「光様、殿にお客人がお見えでござります。」
官兵衛がその声に気づき、不自由な体で声のした方になんとか顔を向けると、一人の武将が静かに歩み寄ってきた。男は官兵衛の前で足を止め、深い敬意を込めて片膝を突いた。その眼差しには、亡き半兵衛に通じる凛とした静謐さが宿っていた。
「小寺官兵衛殿……。某は半兵衛が従兄弟にあたる、竹中重利にござりまする。此度のご生還、亡き半兵衛に代わりまして、心よりお慶び申し上げまする。……あ奴も、官兵衛殿が戻られることを、一点の疑りものう信じておりました。」
「は……、半兵衛殿の、従兄弟……?」
「は! 半兵衛より託された品、お届けに参りました。これは、あ奴が軍陣にて片時も離さず使いおった、魂とも言える軍配にございまする。受け取ってやってはくださらるか……。」
そう言って竹中重利は、古びた、しかし磨き抜かれた軍配を恭しく差し出した。紛れもない半兵衛の軍配である。その漆の光沢、握り手の擦り切れ方。官兵衛の記憶にある、あの知略の象徴そのものであった。
「半兵衛は死の間際、某にこう言い残されました。『この軍配は、官兵衛殿が戻られたら必ずお渡しせよ。これからはこの半兵衛に代わって官兵衛殿を助け、筑前(秀吉)殿のためにその知略を振るうのじゃ』……と。あ奴の魂は、官兵衛殿と共にありたいと願うたのです。」
「な、なんと、半兵衛殿が……形見の軍配を……わしに……託されるか……。」
官兵衛は震える手を伸ばし、その軍配を吸い込まれるように受け取った。手にした瞬間、ずっしりとした重みが腕に伝わる。それは単なる道具の重さではない。半兵衛が生きた三十六年という時間の重み、そして黒田家に捧げた命の重さであった。木肌に触れると、不思議と在りし日の半兵衛の体温の残滓が、じわりと官兵衛の掌に伝わってくるようだった。
竹中重利は少し間を置いたあと、覚悟を固めた声で続けた。
「官兵衛殿。某もまた、半兵衛の遺言に従い、これよりは官兵衛殿にお仕えし、竹中の家を挙げて官兵衛殿の御力となるよう仰せつかっておりまする。どうか……この重利を、末永くお傍にお置きくださりませ!」
少し間を置いて重利は少し声を低くし、続けた。
「竹中の旗印、これまでと変わらず、官兵衛殿の旗と共に振らせていただきたく存じます。それが、あ奴が最期に願った『二兵衛』の真の姿にございますれば……。」
重利の言葉は、静かながらも岩をも通すような響きを持っていた。
官兵衛は、その言葉を一身に浴びながら、激しく心を揺さぶられた。半兵衛は死してなお、一族を挙げて自分を孤独から救い、支えようとしてくれている。自分を信じ抜いた友の、あまりにも深く、あまりにも潔い献身……。
官兵衛はその言葉を聞き、熱いものが胸を去来するのを感じながら、静かに、しかし深く頷いた。これを以て、竹中半兵衛の魂は、軍配と共に官兵衛の中に受け継がれたのである。
(そうか、半兵衛殿……。お主の夢を、この官兵衛に託されたか。この軍配の重さはお主の命の重さよ。お主が命を賭して守ってくれた松寿と、お主から託されたこの軍配、わしが一生を懸けて守り、そして果たしてみせる。そう……半兵衛殿、わしの心の中でどのような天下を創るのか、しかと見届けていただきたい。『二兵衛』はこれからも不滅でござる……。)
官兵衛は静かに目を閉じ、心の奥底で盟友と対話した。頬を伝う熱い雫を、彼は拭おうとはしなかった。
有岡の地を後にして、光に会えた喜びと、半兵衛の死という巨星の最期……。
官兵衛の感情は一年間閉ざされた情報を急激に受け入れて振り子のように揺さぶられながらも、一つ一つ噛みしめて消化していかなければならなかった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
竹中半兵衛の死、そして軍配の継承……。
かつてともに天下を語り合った『二兵衛』の絆は、死によって断たれたのではなく、より強固なものとして官兵衛の中に宿りました。
重利が語る『竹中の旗印を、これまでと変わらず官兵衛殿の旗と共に振らせていただきたい』という言葉は。それは、半兵衛が最期に遺した、官兵衛を一人にはさせないという究極の優しさだったのかもしれません。
形見の軍配に宿る体温を感じ、涙を拭うこともしなかった官兵衛。
彼の心の中で、半兵衛はこれからも『不滅の軍師』として生き続けます。
次回、ついに松寿丸が官兵衛の前に姿を現します。
父と子の再会、そして黒田家がいよいよ反撃の狼煙を上げようとしていきます。




