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第十九話 生存

 救出された官兵衛を待っていたのは、残酷なまでの秋の太陽でした。

 ボロボロになり、人としての形すら失いかけた彼を織田信長の嫡男、信忠は言葉を失って見つめます。


 命を繋いだ、忠義も守り抜いた。

 けれどその代償として失ったものはあまりにも大きく……。

 信長への暗い憎悪が官兵衛の胸に灯ったその時、姫路からの早馬がしんじがたい『奇跡』を運び込みます。


 地獄の終わりを告げる、希望の咆哮が響き渡ります。

 一年近く日の光を見ることが無かった官兵衛に対し、秋の空高くから見下ろす太陽は残酷なまで官兵衛を照らした。そのまぶしさに目を細めながら官兵衛は


 (助かった……。助かった……。助かった……。)


 と、有岡城を後にしながら、ただそれだけを思い続けた。

 善助たちはとりあえず、有岡城を取り囲んでいた織田陣営に向かった。


 太兵衛が背負った『ぼろ雑巾』のような生き物は、それに驚く陣営の武者たちをいとも簡単にかき分け、偶然にも奥に座る織田信長の嫡男、信忠のもとに参じた。

 

 信忠はこの時、既に信長から家督を譲られた織田軍の総大将であった。


 善助は偶然居合わせた信忠に驚きながらも、官兵衛を背負った太兵衛を指差した。


 「ち、中将(ちゅうじょう)(信忠)様、こ、これにおわしますは我が主君、小寺官兵衛にござりまする!一年もの間、有岡の牢に閉じ込められながらも忠義を忘るる事無く、耐えておりました!何卒お許しを……。」


 その声を聞いた織田陣営の者たちから『おおお!』というどよめきが聞こえたが、信忠は絶句した。


 既に人に見えないこの生き物が官兵衛だと知った時、信忠はこの男が味わった壮絶な苦悩を痛いほど感じた。


 「これが……官兵衛か?誠……で……あるか……?」


 官兵衛は太兵衛の背中で小さく(うなず)く事が精一杯だった。


 「た、大義であった……官兵衛。長きにわたりよく耐えた。お主の忠義、しかと見届けた……。すぐに父上に早馬を出す。安堵せよ。」


 官兵衛は心の中で感じた。


 (父上……松寿の(かたき)……。)


 松寿丸を長浜に送った時から覚悟はしていたが、理屈では割り切れない信長への憎悪がまた官兵衛の心の奥底で炎を灯し始めた。


 信忠は叫んだ。

 

 「誰か、官兵衛を手当てせえ!あと父上に早馬を出せ!『官兵衛、生存!この信忠、官兵衛の忠義をしかと見届けた』とな!」


 官兵衛一行はすぐ、陣営の更なる奥へと導かれた。毛布に包められ、温かい茶が届いた。


 自分の力で歩くこともままならなかった官兵衛は丁寧に寝かされた。簡易的な毛布ではあったが、一年近く布団の温もりを味わうことが無かった官兵衛にとっては今までのどんな高級布団より温かかった。

 息絶える寸前まで衰弱はしていたが、幼少期よりともに育った栗山善助たちが(そば)にいるだけで一年近く(ぬぐ)えなかった心の中の氷のような緊張がゆっくりと解けていく感覚があった。


 善助にはまず、姫路に官兵衛の生存を知らせる必要があった。


 「これより直ちに姫路へ早馬を飛ばしてはくださらぬか! 『殿は生きておられた、有岡城より救い出した』と……。

 (てる)様へお伝えしてくだされ!『殿は足をお病みになり、お姿こそ変わり果てておられるが、確かに殿にご相違ない。今すぐお迎えの準備を整えよ』と。お頼み申す! 」

 

 織田陣営のの放った早馬が、絶望に暮れていた姫路の黒田家に希望の()をともしたことは間違いない。



 官兵衛はいち早く姫路に帰りたがっていた。松寿丸を失った事で(てる)がまだ意気消沈しているだろうという心配から一日も早く(てる)の顔を見たいと思っていた。


 翌日、早速官兵衛は善助を通じて信忠から姫路帰還の許しをもらった。


 官兵衛は板張りの輿に乗せられ、それを太兵衛と九郎右衛門が担いだ。善助は玉松の手を引き、織田陣営を後にした。


 道中、官兵衛一行は前から早馬が自分たちに近づいてくるのに気づいた。

 一瞬で一行は官兵衛の輿を地面に丁寧に置いて、三人で囲んだ。

 だが、それは刺客ではなく、姫路からの返答を携えた早馬らしい……。


 早馬の使者は官兵衛の前で馬を下り、片膝を付いた。


 「殿! 姫路より急ぎ参りました!(てる)様よりの言伝(ことづて)にございます! 殿の御無事、一同涙して喜んでおります!」


 善助はすかさず聞いた。

 

 「(てる)様は!?姫路の様子は!?」


 「は!(てる)様も家臣一同も、今か今かと殿のお戻りをお待ちでございます!」


 「よかった!他に何か知らせはあるか?」


 「は!実は……。これこそが天の恵みと申すべきか……。」


 「なんじゃ。早ういわんか!」


 「は!処刑されたと聞き及びし松寿丸様は……ご無事でおられるとの事!」

 

 その言葉が投げ込まれた瞬間、一行(いっこう)を包んでいた時が止まった。

 官兵衛の眼に、稲妻が走ったかのような強烈な精気が戻る。松寿が生きていた。わが子が、生きている。


 官兵衛は輿の上で跳ね起きようとした。だが鉛のように重い体は言うことを聞かず、ただ激しく畳を叩くような音を立てて震えた。

 叫ぼうと口を開けたが、乾ききった喉から掠れた吐息しか漏れない。

 

 「ま、誠……か。しょ、松寿が……生きて、おったのか……。」

 

 叫ぼうと開いた口からは、乾ききった喉が鳴る(かす)れた吐息しか漏れない。だが、その目は見開かれ、そこには土牢の一年間、死を覚悟した時には決して見せなかった『父親』としての凄まじい生への執着が宿っていた。

 それを見た善助が、使者の肩を(つか)まんばかりに身を乗り出した。

 

 「待て……待てい! 今、なんと申したッ!? それは誠か! 誠に、松寿丸様は生きておいでなのか!? もう一度、もう一度申してみよ! 若は、若は誠に息災なのじゃな!?」

 

 善助の声は震え、最後は悲鳴に近い絶叫となった。

 

 「は!今、姫路へ向けて、松寿丸様をお迎えの使者が走っておりますれば、殿がお戻りになる頃には、父子の再会が叶いましょうぞ!」

 

 「おおおっ……!!」

 

 「やったぞ! 若殿が生きておられた!」

 

 太兵衛と九郎右衛門が、武骨な拳を天に突き上げて咆哮した。二人は肩を組み、まるで子供のように声を上げて泣き笑い、互いの背中を痛いほどに叩き合った。

 官兵衛は家臣の目を(はばか)ることなく、溢れ出る涙を流し続けた。声にはならないが、痩せ細った胸板が、激しい嗚咽と共に大きく波打っている。

 善助は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。天を仰ぎ、何度も


 「ありがたき幸せ……。ありがたき幸せ……。」


 と、地面に額を擦り付けた。だが、ふと疑問がよぎる。なぜ、信長の命から逃れられたのか。

 

 「待て、待てッ!子細(しさい)を申せ! 上様の厳命(げんめい)をいかにして逃れ、誰が若を救い出したのだ!? 一体、誰がこれほどの神業を……!」

 

 「はっ!竹中半兵衛様が、ご自身の領地に密かに(かくま)っておられました!」

 

 その名を聞いた瞬間、官兵衛の心臓がどくん、と大きく脈打った。

 

 「半兵衛殿が……。」

 

 視界が涙で滲み、秋の青空が黄金色に溶けていく。

 

 (ああ……。デウスよ……。半兵衛殿……。わしが土牢の底で()いつくばっておる間、貴殿は己の命を賭けて、わしのすべてを守り抜いてくれておったのか……。)

 

 官兵衛は、震える手で自らの胸元を掴んだ。そこにはまだ、半兵衛から託された軍師としての誇りと、彼が繋いでくれた未来が脈打っている。

 

 「善助、聞こえるか……。わしは……わしは、日の本一の……友を持ったぞ。……ああ、もったいなきことよ……」

 

 官兵衛の(ささや)きは、秋風にさらわれるほど弱々しかった。だが、彼を支える善助には、その言葉の重みが、そして官兵衛の魂が再び熱を帯びたことがはっきりと伝わっていた。善助は涙でぐしょぐしょになった顔で、何度も、何度も(うなず)いた。


 官兵衛が恩人、竹中半兵衛の死を知ったのは姫路に戻ってからの事だった。

 最後までお読みいただきありがとうございます。


 松寿丸が生きていた。

 その知らせを聞いた時の官兵衛の震え、そして善助たちの獣のような咆哮。


 そして語られる竹中半兵衛の『神業』。

 己の死期を悟りながら、友のために命を懸けて未来を繋いだ半兵衛の義は官兵衛の人生を再び動かす大きな力となります。


 次回、第二十話。

 遂に愛妻、光との再会を果たします。変わり果てた官兵衛を光はどう受け止めるのかをどうぞ見届けてください。

 

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