第十八話 救出
一年近くに及んだ有岡城の地獄、
暗く冷たい土牢の中で、官兵衛が繋ぎ止めていたのは一本の細い糸のような命と、武士としての誇りでした。
荒木村重の逃亡により崩壊する城内。混乱の中、ついにあの男たちが動きます。
「主君を、必ず生きて連れ戻す」
その誓いだけを胸に潜伏し続けた家臣たちと、官兵衛の命の灯を守り続けた加藤家の絆。
今、運命の扉が開かれます。
主君がいなくなった有岡城内で士気は一気に崩壊へと向かった。守備兵たちが主君に『見捨てられた』という絶望感に包まれ、ついに内部から裏切り者が出て城は落ちた。官兵衛を一年近く地獄に閉じ込めていた砦が遂に陥落したのである。
黒田家の忠義を証明するために三木城攻めへ参加していた善助、太兵衛、九郎右衛門はこの機を逃さなかった。有岡城総攻撃に乗じて三木の陣から有岡城へ戻った彼らは、かねてより加藤又左衛門と接触しており、城内の状況はおおよそ把握していた。
落城の混乱に乗じて突入し、三人は地下の土牢へと続く階段を駆け下りた。
下りながら善助が叫ぶ。
「加藤殿はおられるか!鍵を!」
加藤又左衛門は突然下りてきた三人に驚きながらも、遂にこの日が来たかと、迷いなく鍵を差し出した。加藤は息子、玉松の救出に向かった。
善助が震える手で錠を外していく。一つ、また一つ。重い鉄の扉が開く音が地下牢に響いた。
「殿!殿!」
松明を掲げて踏み込んだ瞬間、三人の足が止まった。そこに、人の形をした『何か』がうずくまっていた。
「これが、殿……か?」
太兵衛の声が震えた。
善助らの声に反応した人の形をした『何か』は少し動いて目を上げた。
塊の中から二つの眼が善助たちの方を向いているが、焦点はもう合っていなかった。
「ぜ……、ぜん……すけ……か?」
すぐさま善助が声をかけた。
「殿! 殿! 善助でございます!お迎えに参りました!わかりますか!? お声が聞こえますか!? ……ああ、生きていてくださった。よう、よう生きていてくださいました……!」
母里太兵衛も声をかける。
「殿! 太兵衛にございます!この一年、一日たりとも忘れず、この時を待ちわびておりました。これほどの生き地獄を……。誠に、誠にご苦労様でございました……!」
井上九郎右衛門も泣きながら言った。
「九郎右衛門にございます!殿、ご安心下され!我ら黒田の家臣一同、これからは一生、片時も殿の傍を離れませぬ! 死ぬまでお供いたしまする!」
官兵衛に会えた喜びと官兵衛の変わり果てた姿も見て、三人ともすでに泣きじゃくっていた。
髭は伸び放題で汚れ、髪の毛は極度の栄養失調からほとんど抜け落ちている。頭にはひどい瘡ができ、異臭を放つほど衰弱していた。すでに膝の関節が固まって、自力で立つこともままならなかった。眼も虚ろで生きているのが不思議なほどの有様である。
官兵衛は家臣たちが一年間も自分を見捨てずに城下で見守り続けていたことを知ったが、三人の言葉に答える元気はすでになかった。震える手を差し伸べながらただ言葉にならぬ嗚咽を漏らしていた。
太兵衛の背中で、官兵衛の節だった骨が直接当たる。その痛みさえ、太兵衛には愛おしく、誇らしかった。
「重うございませぬ。殿は、こんなに軽くなられて……。申し訳ございませぬ……。」
と、背中の主君に聞こえぬよう、ただ涙を噛み殺した。
官兵衛は太兵衛の背中から落ちないよう最後の力を振り絞ってつかまっていたが、安堵の思いでいっぱいだった。
「官兵衛殿!」
城から出ようとしていた時、背後から声がした。
振り返るとそこには加藤又左衛門がいた。傍にはふじ亡き後、官兵衛の世話をしていた弟の玉松もいた。
官兵衛に代わって善助が応えた。
「加藤殿……。此度は誠に世話になり申した。何とお礼を申し上げるべきか……。」
加藤は話した。
「官兵衛殿、一年もの間……。おのれの信念を曲げず、誠の武士の魂を見せていただきました。善助殿らも家臣として、見上げた奉仕……。存分に見せつけられましたわ。……恐れ入りました……。」
官兵衛は
「かとう……どの……。ともに……。」
それを汲み取った善助が口を開いた。
「加藤殿、我が殿はこう思うておられる。共に姫路に行かぬか?もちろんその子も一緒に……。」
加藤は応えた。
「ありがたきお誘い……。なれど某は、この玉松の兄、吉成と共に、この有岡と運命を共にいたす所存……。お主らの誉に、負けてはならんと、そう思うておるんや……。ただ、この玉松だけ……連れて行ってはくれまいか。加藤の血を絶やしてはならぬゆえ……。此度は、某が……伏してお頼み申す!」
加藤は土下座した。あの時、善助ら三人が加藤にした事をそのまま返した。
官兵衛も善助たちもその姿に心を打たれた。
「加藤殿、お主のお陰で我が殿はこのように命を繋げる事が出来た。加藤の血、絶やさぬよう、黒田家が責任を持って玉松をお預かりしよう。殿もそのように思われておる。」
善助は官兵衛に目配せしながら応えた。官兵衛も異論は無い様子だった。善助は続けた。
「あと……。加藤殿、加藤殿の此度のご尽力は上様のお耳に入るよう取り計らう。もし、有岡を無事に生き延びる事が出来たら姫路までお越し下され、吉成殿と共に……。」
加藤は深々と頭を下げ、しゃがんで玉松に語りかけた。
「玉松よ……。わしは吉成と、この有岡に残る……。お主は、加藤の血を受け継ぎ、官兵衛殿の元で力をつけるんや。お主の姉、ふじの代わりとなって姫路に行け。案ずるな。いずれ、ここが片付いたら、吉成と共に会いにいくからな……。なあ、玉松。よう聞くんやで……。」
玉松は溢れ出る涙を流すまいと口を真一文字に結び頷いた。加藤の血を受け継いだ玉松は七歳にして加藤家の未来を背負う覚悟をした。
官兵衛は痩せ衰えた右手で、必死で涙を堪えていた玉松の頭を撫でた。
「玉松よ……、お主の姉が……わしを……外へ出してくれた……。次は……わしが……お主を陽の下へ連れていく……。」
官兵衛は、枯れ木のような声で、絞り出すように言った。一年間、ほとんど言葉を交わさなかった喉が鳴り、震えている。だがその声は、土牢の冷たい闇ではなく、玉松の胸へと真っ直ぐに届いた。
玉松はそれを聞いて、遂に耐えられなくなり、泣き出した。
官兵衛はその横顔に、ふじの面影を見た。
ふじを救えなかった。しかし、弟の玉松が目の前で生きている。官兵衛にとって、玉松を救い出すことは、ふじへの贖罪を意味することになる。
玉松はやがて、官兵衛によって育てられ、後の『黒田二十四騎』の一員として黒田家を支えていく存在になっていく……。
九郎右衛門は玉松の手を引き、官兵衛一行は有岡城を後にした。加藤は官兵衛達と玉松を見えなくなるまで見送り続けた。
官兵衛の痩せこけた手にはふじの形見の数珠が握られていた。
泥と血に汚れた指先が、その黒い粒を一つずつ、確かめるように辿る……。ふじの祈りが、そして加藤親子の義が、冷え切っていた官兵衛の心に、消えない火を灯していた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
変わり果てた姿で救出された官兵衛。太兵衛の背中の痛み、そしてふじの形見の数珠を辿る指先……。嘘みたいな話に聞こえるかもしれませんが、執筆しなが涙が出てたなんて事、実際にあります。
ここで官兵衛が玉松を救い出したことは、単なる人助けではなく、彼自身の魂の再生でもありました。この時、官兵衛に連れられた少年が後に『黒田二十四騎』の一員として歴史に名を刻むことになる。
次回から、救出された官兵衛が数々の再会を果たしていきます。そしてさらなる衝撃の事実が彼を待ち受けます。
日本語と英語、つまり日英同時連載中です。詳しくは活動報告をご覧下さい。




