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第十六話 土牢のマリア

 第十四話へようこそ。

 これまでの官兵衛は、忠義の心と、ふじが灯した小さな希望だけを頼りに暗い土牢に耐えてきました。しかし、今回は歴史はあまりにも残酷な転換点を迎えます。


 これは『忠義の士』がいかにして『日本一冷徹な軍師』へと変貌したのかを描く、物語最大の重要局面です。公式の歴史書には記されていない、官兵衛の魂が死んだ瞬間をぜひ見届けてください。

 加藤又左衛門は、主君から立ち昇る(すざ)まじい殺気に()され、蛇に(にら)まれた蛙のように鍵を渡すしかなかった。

 

 荒木はその濁った眼で二人を静かに射抜いていた。

 

 「お主……、官兵衛に何を耳打ちしておる!外へ出ろ!」

 

 ふじの身体がビクっと大きく跳ねた。

 鬼のような形相(ぎょうそう)で見下ろす荒木を恐る恐る見上げた後、振り返って救いを求めるように官兵衛を見たが、荒木の怒声に弾かれるように土牢の外へ引きずり出された。

 官兵衛に、彼女を引き留める力はもう残っていなかったが、鉄格子の隙間から、折れ枝のような右手を必死に突き出した。


 「ふ、ふじ……。」

 

 ふじもまた、恐怖に震えながら、吸い寄せられるように官兵衛に手を伸ばした。


 「官兵衛様!」

 

 官兵衛の、汚れ、ひび割れた指先とふじの、白く、透き通るような指先……。

 冷たい鉄格子の境界線上で、二人の鼓動が指先を通じて重なり合おうとした。

 

 あと、数ミリ……そして……触れた……。

 

 それは、死の淵で交わされた、言葉を超えた抱擁だった。

 官兵衛は、一生忘れることのないであろう、彼女の指先の微かな震えとぬくもりを、その魂に刻みつけた。

 

 だが村重はすぐに引き裂いた。その神聖なるひと時を……。

 

 「貴様もその『デウスの愛』とやらで、官兵衛を()でるつもりか!」

 


 

 その瞬間である。荒木は刀を抜き、ふじのその()()()身体を一刀両断した。



 

 世界が止まった……。


 


 ふじは、「ぎゃあ!」という悲鳴を上げ、その場に崩れた。

 血が噴き出し、見る見るうちに血の海となっていった。


 官兵衛の視界の中で、ふじの身体がスローモーションとなって崩れていった。

 

 「ふ……、ふじ……ふじ……ふじ……ふじぃぃぃぃぃっ!」

 

 官兵衛のその叫びが意識とともに遠のきながら、ふじは官兵衛を見つめた。


 「かんべえ……さま……。姫路に……行きとう……ご……ざ……い……。」


 官兵衛は微笑みながら息絶えていくふじに、命ある限りの力で鉄格子の中から手を差し伸べた。

 鉄格子が官兵衛の顔に激しく食い込んでいた。


 娘の悲鳴を聞き、慌ててふじの父、加藤又左衛門は駆け付けた。が、その姿を見て膝を落とした。

 

 「ふ……、ふじ!」

 

 十四年前にこの手で抱き上げて、『(ちょう)よ花よ』と惜しみなく愛を注いだ一人娘が今、主君により殺されたのだ。

 

 加藤は伏せたままふじの亡骸(なきがら)に近づき、冷たくなっていくふじの上体を抱き起し眼を開けさせようと必死で揺さぶった。


 「これ!ふじ!ふじ!ふじ……。眼を開けんか!お願いじゃ!(はよ)う眼をあけてくれんか……。ふじ……。」


 荒木は悪びれた様子もなく、加藤又左衛門に対し悪魔のような言葉を放った。


 「又左衛門よ……、お主の娘は官兵衛に要らぬことをしておった。よってわしがこの手で成敗した。お主がわしを敵とみなして官兵衛を助けようとすれば、このふじのみならず、弟の玉松も成敗となる。それを忘れるでないぞ!」


 と言って刀についたふじの血を振り払って鞘に収め、土牢を出て言った。

 

 「ああ、ああ、あああああ……っ!」

 

 又左衛門の口から漏れたのは、言葉にならない獣のような慟哭(どうこく)だった。

 

 主君、荒木への忠誠と、娘への愛。その狭間で震えていた彼の心は、今、無残に両断された。

 彼は娘の胸元に顔を埋め、溢れ出す血を自分の衣で拭おうとしたが、その赤は止まることを知らず、彼の絶望を塗り潰していった。





 静寂が訪れた……。

 

 残された官兵衛は、放心したまま鉄格子の向こう側を見つめていた。

 もう、涙さえ枯れ果てていた。

 視界の端で、動かなくなったふじと、その傍らで魂が抜けたように震え続ける加藤の背中が、交互に映る。

 官兵衛は、自分の無力さをこれほどまでに呪ったことはなかった。

 

 (なぜ……なぜ人を殺める者ばかりが生き残り、守ろうとする者が血に伏さねばならぬのか……。)

 


 

 ふじが捧げた無償の愛。わずか十四歳の娘がこれから生きていく明るい未来は断ち切られた。

 

 (ふじ……許してくれ。……わしの前にさえ現れなければお主はまだ生きていた……。)

 

 暗闇を照らした『冬の藤』は枯れた。

 代わりに、官兵衛の五臓六腑(ごぞうろっぷ)を、冷徹な憎悪の業火(ごうか)が焼き尽くしていく。

 

 (許さぬ……。もはや、神も……仏も……ここにはいない……。村重……小寺……信長……。この官兵衛が生きている限り……必ずや、お主らを地獄の底まで引きずり落としてやる……。)

 

 この狂った乱世では慈悲や愛などという(もろ)い盾では、何一つ守れはしないのだ。

 この不条理を終わらせるには、自らが不条理を超える『圧倒的な力』にならねばならない。

 

 (わしが、この世を変える『怪物』となってやろう……。)

 

 その日から官兵衛の眼光から、人間らしい光が消えた。

 代わりに宿ったのは、天下をも飲み込もうとする、暗く、深い『闇』……。

 そして、冷徹なまでに研ぎ澄まされた『最凶の軍師』としての覚悟だった。



 官兵衛はこの事件を境にこの土牢から出ることだけを考え始めた。

 己の命に巨大な『業』を課したのだ。この世の中をひっくり返すことができる知略を衰えゆく身体に備えなければならないと……。

 小さく清らかな『冬の藤』が散ってしまいました。

 第一話で坂本探偵が呟いた通り、『証拠がないこと』こそが『真実』を物語ることがあります。公式の記録には『官兵衛は幽閉されていた』としかありませんが、その土牢の中で彼がどれほどの『闇』を抱えたのか……。


 この血溜まりの中で生まれ変わった男は、もはや有岡城に入る前の官兵衛ではありません。戦国という時代そのものを飲み込もうとする『怪物』の誕生です。


 今回の話にはいくつかの名作映画のオマージュを折り込みました。わかる方にはわかると思います。


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