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第十五話 約束

 有岡城を包囲する軍勢。逃げ場のない城内で、官兵衛の肉体はついに限界を迎えようとしていました。

 死の淵で彼を支えたのは、竹中半兵衛の幻影と、献身的に尽くす少女、ふじの存在。


 厳しい冬を越え、土牢の小窓から見えたのは『藤の花』の蕾でした。

 地獄の底で交わされた、美しくも切ない『約束』の物語です。

 織田信長は有岡城の荒木村重を攻めるべく京都を出陣し、山崎に滞在していた。これは単なる包囲ではなく、信長自身が早期決着をつけようとする強い意志の表れであった。

 これにより外部からの補給路は完全に断たれ、城内の兵糧は『減る一方』という、目に見えぬ恐怖が精神をじわじわと圧迫し始めていた。

 

 ふじによる献身と、デウスの教えに救われながら、官兵衛はなんとか絶望の淵で生き永らえていた。村重にとって、官兵衛を翻意(ほんい)させる望みがある限り、彼を生かしておくことには意味がある。

 ゆえにふじの出入りは、度が過ぎぬ程度であれば『黙認(もくにん)』という形で許されていた。


 ふじとの(ささや)き合うような対話に加え、彼女が持ち込む『キリストの受難』や『詩篇』の写しを読み()けることが、官兵衛の日常となった。

 

 それは亡き松寿丸の成仏を祈る儀式でもあり、光の届かぬ土牢における唯一の知的な刺激でもあった。

 

 不意に、敬愛する竹中半兵衛の言葉が脳裏をよぎる。

 

 (もし天下を変える時が来たなら……。それは官兵衛殿にしかできん。頼んだぞ……。)

 

 その声は、今の無様な自分を叱咤(しった)するように胸に突き刺さる。

 

 (半兵衛殿……。あのお方だけは、どうか息災(そくさい)でいてくださらねば困る。一刻でも早く、またお会いしたい……。)

 

 官兵衛の肉体は、すでに限界に達していた。不衛生な泥水に浸かり続けた足の関節は(ひど)く膨れ上がり、わずかに身じろぎするだけで、焼火箸(やきひばし)を突き立てられたような激痛が全身を貫く。

 

 「う……ぐっ……。」

 

 痛みに耐えかねて意識が朦朧(もうろう)とすると、闇の中に半兵衛の白く細い指が見えるような気がした。その指が自分の額に触れ、死の淵へ引きずり込まれそうな魂を、優しく現世へと繋ぎ止めてくれる。そんな幻覚だけが、今の官兵衛にとっての唯一の(つえ)であった。

 

 さらに、姫路に残した愛妻、(てる)のことも片時も忘れられなかった。

 

 ((てる)。お前の耳にも、松寿の最期は届いておろうか……。官兵衛は死んだと、思い定めておるやもしれぬ……。どうか、気を強く持ってくれ……。生きて、この官兵衛を待っていてくれ……。頼む……。)

 

 長く、あまりに過酷な冬だった。底冷えは官兵衛の骨の髄まで()てつかせ、命の灯火(ともしび)を幾度も吹き消そうとした。だが、朝晩の突き刺すような冷え込みがわずかに緩んだ頃、官兵衛は『死』という名の冬に、どうにか打ち勝ったことを悟った。

 五感が麻痺し、季節の流れすら定かではない暗闇の中。小さな窓の向こうに、藤の(つぼみ)が膨らんでいるのが見えた。

 

 官兵衛はいつしか、ふじが来るのを魂を震わせて待ちわびるようになっていた。

 それが恋なのか、あるいは信仰に近い敬愛なのか、官兵衛自身にもわからなかった。

 ただ、自らの汚れた身体や排泄物を、嫌な顔ひとつせず清めてくれる少女。時折、(いつく)しむような微笑みを浮かべてデウスの教えを説くふじの姿に、彼はどうしようもなく惹かれていった。

 

 ふじが来られない日は、弟の玉松が小さな体で重い(かゆ)の器を運んできた。

 

 「これ……姉上が、官兵衛様にって……。絶対に食べて、元気になってください……。」

 

 幼い少年の、嘘を知らぬ真っ直ぐな瞳。それを見つめるたび、官兵衛は失った松寿丸の面影を重ね、胸が張り裂けんばかりの想いに駆られた。この姉弟が運んでくる『家族のぬくもり』こそが、死臭漂う土牢における唯一の救いだった。

 

 ふじもまた、官兵衛に心を寄せていた。十四歳の純真な娘にとって、この(すさ)んだ世にあって、自分の言葉を一言一句聞き漏らさず、真剣な眼差しで受け止めてくれる官兵衛は、紛れもなく『魂の理解者』であった。

 

 正室、(てる)の話を聞かされ、叶わぬ恋だと自戒しながらも、若い少女の中で一度芽生えた想いは、春の芽吹きのように力強く、止めることはできなかった。

 

 (おお……。春が、やってきたのか……。)

 

 窓の外、今にも弾けそうな藤の蕾を、官兵衛はふじの姿と重ねていた。厳しい冬を越え、咲き誇ろうとするその生命力に、官兵衛は生きる執念を再び燃やす。

 

 (デウスは、この官兵衛を見捨てなかった。あの藤の花が枝を伸ばすように、わしもいつか必ずこの牢を出て、日の光を拝んでみせようぞ。)

 

 ある日、ふと見上げると、藤の花は薄紫のカーテンのように満開に咲き誇っていた。

 

 「藤が……。咲いたな……。」

 

 床を掃いていたふじの手が止まった。

 

 「私が来れぬ時はこの藤の花が私の代わりに官兵衛様を労わりましょう……。

 官兵衛様、姫路でも藤の花は咲きますか?」

 

 「ああ……。(てる)が好きでな。毎年、城の庭で見事に咲く……。お主にも、見せてやりたいほどだ。」

 

 「いつか……見てみとうございます。官兵衛様と一緒に……。」

 

 ふじは一瞬、遠くでこちらを(にら)んでいる父、又左衛門に目をやり、意を決したように声を震わせた。

 

 「官兵衛様……。実はいつからか、私はあなた様をお慕い申し上げておりました。この(はかな)き世で、あなた様だけが私の心を受け止めてくださった……。

 もし、いつかここをお出になることが叶いましたなら……影なる(めかけ)でも構いませぬ。私を姫路へ連れて行ってくださいませ! ただ……あなた様の(そば)に、いとうございます。」

 

 官兵衛は絶句した。人としての尊厳すら失い、死を待つばかりの今の自分に、『慕っている』と告げた少女の無垢な勇気。その想いの重さに、脳を殴られたような衝撃を受けた。

 

 「な、ならぬ……。わしには(てる)がいる。側室は持たぬと決めておるゆえ……。」

 

 それは武士としての矜持(きょうじ)であると同時に、あまりに(まぶ)しい少女の想いから、自らを守るための『防壁』でもあった。()(おとろ)えた指が、ふじの温かな手に触れる。その柔らかな体温に溺れてしまいそうになる自分を、官兵衛は懸命に律した。

 

 だが、このまま彼女をこの城に残せば、有岡が落ちた時、彼女を待つのは織田軍による蹂躙(じゅうりん)か、あるいは逆賊(ぎゃくぞく)の縁者としての死だ。

 

 「ふじ。側室にはできぬが、お主には返しきれぬ恩がある……。姫路へ連れて行こう。

 そこで、お主にふさわしい良き伴侶(はんりょ)を、わしの家臣の中から見つけよう。お主の幸せは、わしが必ず見届ける。それが……わしの返せる、せめてもの誠だ。」

 

 ふじの瞳が、歓喜で潤んだ。とにかく官兵衛の傍にいることができるという喜び……。

 

 「ありがたきお言葉! 官兵衛様のお申し付けとあれば、何なりと。あなた様をお守りするためなら、槍稽古でも何でもいたします!」

 

 官兵衛はその健気さに心を撃ち抜かれた。思わず全てを捨てて、この娘を抱きしめたかった。ただ自分が『小寺官兵衛』として我慢する事を選び、無理矢理口角を上げた。

 

 「はは……。その時は必ず、姫路の藤の花を見せてやる。約束しよう。」

 

 ふじは、横たわる官兵衛の細い身体に、壊れ物を扱うように、けれど愛おしそうに抱きついた。二人の間に流れる時間は、一瞬だけ地獄の底であることを忘れさせた。



 

 ところが……この光景を、息を潜めて見つめる影があった。荒木村重である。

 第十五話、いかがでしたでしょうか。


 凄惨な土牢の描写が続きましたが、今回は満開の藤の花とともに、官兵衛の心にわずかな光が差し込む回となりました。側室を持たないという妻、光への誓い。それを守りつつも。恩人であるふじの未来を案じる官兵衛の優しさが、過酷な運命の中で際立ちます。


 しかし、ラストシーンで忍び寄る荒木村重の影……。

 この小さな『約束』が、二人の運命にどのような波乱を呼ぶのか。

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