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第十三話 神は苦しみの中に

 有岡城の土牢に繋がれた官兵衛。

 唯一の友であった羽柴秀吉は『三木の干殺し』という泥沼の戦いの中で苦悩し、主君、織田信長の疑心暗鬼は最悪の域に達しようとしていました。


 生死の境を彷徨う官兵衛の前に現れたのは、加藤の娘、ふじ。

 彼女が語る『神』の教えと無償の献身は、冷徹な軍師の魂に、これまでにない衝撃を与えていきます。

 この時、羽柴秀吉が官兵衛をすぐに救出できなかった理由は、当時の絶望的な情勢と、織田信長による激しい疑心暗鬼(ぎしんあんき)が複雑に絡み合っていたからに他ならない。

 

 唯一の目撃者であるはずの従者たちの行方も知れぬ以上、信長は『官兵衛は村重に説得され、主従揃って織田を裏切り、荒木側に寝返った。このまま生かしておけば、播磨の支配に致命的な禍根(かこん)を残す』と、その苛烈(かれつ)な思考で結論づけてしまったのである。


  最悪なことに、信長や秀吉の耳には、村重側が意図的に流した『軍師は有岡の城を気に入り、荒木殿と夜通し語らっている』という毒々しい虚報(きょほう)だけが届くようになっていた。

 

 さらに、秀吉自身もまた、官兵衛を救い出すための手足を完全にもがれていた。

 当時、秀吉は播磨における最大の敵、別所長治(べっしょながはる)()もる三木城の攻略という、泥沼の戦いの真っ只中にあった。後に『三木の干殺(ひごろ)し』と呼ばれるこの包囲戦は、力攻めが通用せぬ堅城(けんじょう)を相手に、延々と続く長期戦となっていた。

 

 官兵衛という右腕を失った秀吉にとって、戦線の維持だけでも至難の業であり、さらに荒木村重の謀反によって背後まで脅かされた状態では、有岡まで軍を割く余裕など、欠片(かけら)ほども存在しなかったのである。

 

 秀吉は官兵衛の潔白を信じ、陣中で幾度も「官兵衛はそんな男ではない」と訴えた。しかし、主君・信長が一度『裏切り者』と断定した以上、救出を口にすることは『お前も同罪か』と疑われる刃を自らの喉元に突きつけるに等しい。秀吉もまた、焦燥(しょうそう)と無力感の中で、血の涙を流すしかなかった。

 

 物理的な壁も立ちはだかっていた。有岡城は「総構(そうがまえ)」という、城下町全体を広大な堀と城壁で飲み込んだ比類なき堅城である。官兵衛がどこの暗闇に繋がれているかという情報すら遮断された密閉城内へ、わずかな手勢で救出に向かうのは、もはや天に梯子(はしご)をかけるような無謀であった。

 

 その絶望の底で、官兵衛は生きていた。


 ふじは、父、又左衛門から密かに託された小さな包みを、官兵衛の(てのひら)に握らせた。

 

 「官兵衛様……。これは、父から預かったものです」

 

 震える指先で包みを解くと、そこには垢にまみれた紙片があった。

 

 『殿、生きてくだされ。我ら、一歩も引かずにお待ちしております。 善助、太兵衛、九郎右衛門』

 

 乱れた筆跡、滲んだ跡は、彼らが流した涙そのものに見えた。

 

 (生きておったか。あやつら、まだ私を見捨ててはおらなんだか……。)

 

 信長に疑われ、世界から孤立したと思っていた官兵衛にとって、その短い書き置きは、暗闇に突き刺さる一筋の強烈な光となった。官兵衛は、その紙片を胸に強く押し当て続けた。官兵衛の涙もその書き置きを濡らしていた。

 

 加藤又左衛門の娘、ふじは、飢えと病に蝕まれる官兵衛の元へ質の良い食事や薬を運び続けた。そのたびに、汚物と死臭にまみれた牢内を小さな手で清め、官兵衛の熱を持った体を、絞った布で丁寧に拭う。


 加藤又左衛門は荒木村重の指示により、官兵衛が一日も早く翻意(ほんい)を口にするように『生かさぬよう、殺さぬよう』、最低限の施ししか娘に許さなかった。

 

 官兵衛は当初、この少女が何を求めてここまで尽くすのか、全く理解ができなかった。戦国の世における奉仕とは、常に『主従関係』や『恩賞』という代価があって初めて成り立つ契約であるからだ。

 

 ふじは官兵衛に対し、ただ『見返りを求めない隣人愛』を実践し続けた。軍略家として常に『損得』と『利害』で世界を測ってきた官兵衛にとって、この『無償の愛』は、刃で斬られるよりも鋭い衝撃をその魂に与えた。彼が、ふじの信じる神の教えに強い関心を持つようになるのは、必然であったといえる。


 「神は、苦しみの中にこそ共におられるのです……。」

 

 ふじは、看病の合間に教典の断片を語った。

 神の子でありながら、友に裏切られ、民に迫害され、最後に十字架にかけられて苦しんだ救世主キリスト。その孤独な姿は、今、まさに暗闇の牢獄で一人、主君にも裏切られ、友にも死んだと思われている自らの境遇と不思議に重なっていった。

 

 「肉体は滅び、牢に繋がれていようとも、魂は神によって自由であり、既に救われている……。それが、お主たちの教えか。」

 

 死を待つのみであった官兵衛にとって、その考え方は、かろうじて精神を現世に繋ぎ止める太い柱となった。今まで誰も教えてくれなかった『己の価値を他者に委ねない』という新しい価値観。官兵衛は、ふじの語る言葉の深淵(しんえん)に、次第に惹かれるようになっていった。

 

 いつしかふじは、泥と垢にまみれた官兵衛に対しても、(いつく)しむような微笑を浮かべるようになっていた。格子の隙間から射す一筋の光が彼女を縁取るとき、官兵衛の目には、彼女がこの世ならざる聖なる存在に見えた。


 「ふじ、か……。」

 

 ふじは枯れ木のように痩せ(おとろ)えた官兵衛の手を取り、水の入った茶碗を差し出した。

 

 「お主のことが、菩薩(ぼさつ)のように見える時がある……。」

 

 「ありがたき幸せにございます。……官兵衛様、デウスの元では、私は『マリア』という名を持っております。」


 ふじはそう言って、恥ずかしそうに優しく微笑んだ。


 「マリア……?」


 「はい。せめて名前だけでも聖母になりとうございまして……。では今日はこれにて……。」


 そういってふじは女神のような眼差しで官兵衛に微笑み、土牢を後にした。

 


 

 「マリア……か……。マリア……。」


 官兵衛はふじが帰ってから、しばらくそう呟き続けた。


 官兵衛は、ふじが来るのを魂を震わせて待つようになっていた。それはかつての冷徹な軍師としての矜持(きょうじ)を捨てたということではない。明日をも知れぬ死刑囚が、暗闇の中で見つけた唯一の『神』への入り口を、必死に守り抜こうとする祈りに似ていた。



 

 しかし、土牢(つちろう)静寂(せいじゃく)とは裏腹に、地上では荒木村重を絶望させる激震が走っていた。

 村重と共謀し、信長包囲網の要であった高山右近(うこん)と中川清秀(きよひで)の両名が、突如として織田信長の軍門に下ったのである。

 信長の懐柔策(かいじゅうさく)は、まさに『第六天魔王』の名にふさわしい、残虐で合理的なものであった。信長はキリシタン大名である右近に対し、こう突きつけたのだ。

 

 『降伏せねば、この国にいるすべての伴天連(バテレン)(宣教師)とキリスト教信者を皆殺しにし、教会を焼き払う』

 

 右近にとって、それは自らの命を奪われるよりも辛い選択であった。己一人、武士としての節義(せつぎ)を貫けば、信仰を共にする数万の民が地獄へ送られる。血を吐くような苦悩の末、右近は信仰の盾となる道を選び、信長に(くだ)った。それに呼応するように、中川清秀もまた、織田へと寝返った。

 

 この知らせを聞いた村重の動揺は、計り知れなかった。両手足を捥がれたも同然の窮地(きゅうち)に立たされたのである。残る頼みの綱は、西から来る毛利の援軍のみとなった。

 

 だが、この情勢の変化は、官兵衛にとってさらなる逆風となった。

 信長から見れば、主力であった二人ですら降伏してきたというのに、交渉に行ったはずの官兵衛だけが、依然として戻ってこない。

 

 「右近(うこん)ですら(もど)りおった。ならば官兵衛が戻らぬは、(おの)が意志で村重と運命(さだめ)を共にすると決めたからに相違(そうい)ない……。わしを(あざむ)きおったか、あの(つら)め……。」

 

 森蘭丸(もりらんまる)は信長の横で、また魔王の呟きを聞いた……。

 ご愛読ありがとうございます。

 地獄の底で見つけた『菩薩』のような少女の存在。しかし地上の情勢は、官兵衛をさらなる地獄へと追い込んでいきます。


 次回、第十四話。

 ついに信長の怒りの矛先は、官兵衛の最愛の息子、松寿丸へと向けられます。

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