第十二話 忠義の潜伏
「官兵衛は裏切った」という卑劣な虚報。
絶望の淵に立たされた家臣たちの前に、非常な現実が突き付けられます。
しかし、彼らは立ち止まりませんでした。武士の刀を捨て、泥を啜り、主君の命を繋ぐために彼らが選んだ『屈辱』という名の戦い。
黒田家臣団の、凄絶なまでの執念を描きます。
その頃、有岡城の外では、別の『戦』が始まっていた。
荒木村重は狡猾だった。彼は官兵衛の身柄を隠し通すだけでなく、世間に向かって致死量の毒を撒いた。
『官兵衛は、信長を見限り、我らの一味に加わった』
その虚報は冷たい冬風に乗り、またたく間に播磨から京へと広がっていく。信長の疑心暗鬼を煽り、黒田家を孤立させ、官兵衛を闇に葬り去るための、冷徹な計略。それは戦わずして敵の根を腐らせる、軍師への皮肉な仕打ちでもあった。
有岡城の裏門。村重は官兵衛の従者たちを、用済みと言わんばかりに解放した。
その際、番所を預かる加藤又左衛門は、主君・村重の命に従い、彼らに向かって冷たく言い放った。
「小寺官兵衛殿はな……既に我が主と一味同心。織田を離れ、こちらにお味方すると、しかと約諾された。殿は、お主らのような無能な従者などは不要だとも仰せだ。さ、姫路へ戻ってそう伝えよ!」
拘束を解かれ、野に放り出された栗山善助、母里太兵衛、井上九郎右衛門の三人は立ち尽くした。
沈黙を破ったのは、巨漢の太兵衛だった。
「殿が……、荒木に付いた……?」
その声は震えていた。太兵衛の脳裏に、かつてない速さで最悪の事態が巡る。主君が信長を裏切ったのであれば、姫路に残された光も長浜に預けられている松寿丸も、即座に処刑される。
「そないな……嘘やろ……。いや、やけど、殿の御心っちゅうもんは、いつだってわしらには計り知れんもんやさかい……。」
「……貴様、何を抜かしておるッ!」
烈火のような怒号が響いた。
善助が、自分より頭一つ分以上も背の高い太兵衛の胸ぐらを、引きちぎらんばかりの勢いで掴み上げた。善助の瞳は血走り、鬼のような形相で太兵衛を睨みつけている。
「殿が、己のために志を曲げるようなお方か! 誰よりも上様の才を買い、乱世を終わらせようと奔走されたんはどなたやと思っとる! おどれは大馬鹿か! あれほど長いこと殿の背中を見ておきながら、そないな虚言に惑わされるとは……。ええ加減にせんか!!」
善助はそのまま太兵衛を雪の上に突き飛ばした。
「殿は捕らえられたんや……。殺されもせず、返されもせん。それは、まだ利用価値があるっちゅうこっちゃ。……あの男の目は、偽りを吐いとった。わしらがここを去れば、殿は本当の孤独に突き落とされる。そないなこと、あってたまるか! 断じて、あってはならんのや!」
突き飛ばされた太兵衛は、雪を掴んだまま、はっとして頭を上げた。善助の荒い息遣いの中に、絶望を力でねじ伏せようとする凄まじい意志があった。
「姫路に戻れば、殿を見捨てた臆病者や。上様の元へ行けば、裏切り者の連れとして首をはねられる。もはや、わしらに帰る場所などどこにもないんや。……ならば、戦う場所はここしかあらへん。ここしか、ないんや!」
善助の言葉に、九郎右衛門も静かに頷いた。
彼らは武士の誇りを捨てた。腰に差していた自慢の刀を、名もなき林の奥に埋めた。立派な装束を脱ぎ捨て、泥で汚れた粗末な木綿の衣を纏い、顔に土を塗りたくった。
有岡城の城下町で、卑屈な商人や農民になりすまして潜伏を始めたのである。夜は冷たい床下に身を潜め、昼は物乞いに紛れて城の動向を窺った。
彼らが狙いを定めたのは、番所を預かるあの男――加藤又左衛門だった。
村重の信頼厚く、城内の要所を任されている実直な武士。本来、敵対する側の家臣の頼みなど、やすやすと応じるはずのない相手だ。
だが、善助には確信があった。あの男が嘘を告げた時の、わずかな視線の揺らぎ。そこに『義』を重んじる者の苦悩が見えた。
ある夜、善助は加藤の家臣が通う酒場の裏手で、独り歩く加藤の前に姿を現した。
闇の中から這い出した百姓の姿。加藤は反射的に刀の柄に手をかけた。だが、その眼光の鋭さ、見覚えのある胆力に息を呑んだ。
「貴殿は……小寺殿の……? まだ、このような場所におったか……。もはやお主の主君は我が一味と申したはず。早々に立ち去れ。」
加藤の声に、鋭い警戒の色が混じる。すかさず善助は吠えた。
「偽りを申すな! 殿の腹の内は、生まれた時より共におる我らが一番よう分かっておる! 我らの忠義、ゆめゆめ侮るなッ!」
加藤の眉が動いた。一瞬の静寂。
直後、善助は崩れるようにその場に崩れ落ち、加藤の足元に額を叩きつけた。石くれが皮膚を裂き、額から血が流れるのも厭わず、凍った土に顔を擦りつけた。
「加藤殿……! 我が主君の御命、貴殿の手の中にある……。どうか、この通りだ……。どうか……。」
善助の声が、湿った夜気に震えていた。そう、善助は泣いていたのだ。
誇り高き小寺の家臣が粗末な衣を纏い、数日前に騙しながら追い出した敵方の自分に対して、泥を啜りながら泣き叫んでいる……。
加藤は驚愕した。これほどの忠義、これほどの情愛を、自分はかつて見たことがあったか……。
「この城の底のどこかに……殿は閉じ込められておいでや。頼む、飯の中にこれを……これを隠して届けてはくれまいか。わしらが必死にかき集めたものや。金も名誉も、何もいらん。ただ、殿の命を繋いでほしいんや……。ただ、それだけでええ……。一生のお願いや……。わしの命など、いくらでもくれてやる……。やから、殿を……殿を、お助けくだされ……。」
善助が嗚咽しながら差し出したのは、自らの身を削るようにして調達した、わずかな粥と干し肉、そして主君を励ますための短い書き置きだった。震える善助の手は、垢と泥にまみれ、あかぎれで血が滲んでいた。
母里太兵衛、井上九郎右衛門の二人もすぐに跪いて懇願した。既に二人も泣いていた……。
「頼んます、頼んます……!」
人目を憚らず、三人は泣きながら土下座して、何度も懇願し続ける……。
加藤は迷った。村重への忠義、そして目の前で子供のように泣きながら縋りつく男たちの『士魂』。さらには、娘のふじが土牢へ通う姿……。それらが加藤の中で一つに繋がった。
「一度だけやぞ。次は斬る。」
加藤は震える手でその包みを受け取り、別れ際に善助たちに言った。
「某の娘が時折、小寺殿の身の回りの世話をしておる。案ずるな。」
善助たちはは深々と再び頭を下げ、去って行った。加藤は不思議だった。
(あの三人にあそこまでさせる男なのか……。今土牢にいるあの男は……。)
善助たちは、自分たちが『無能な家臣』として後世に蔑まれることも厭わなかった。ただ、主君を生かす。その一点のためだけに、彼らはプライドを泥に埋め、有岡の黒い壁を見上げ続けた。
この『武士同士の秘かな繋がり』こそが、官兵衛を死の淵から引き戻す、細い、しかし強靭な蜘蛛の糸となったのである。
第十二話をご覧いただきありがとうございます。
執筆しながら私自身も涙が止まらなくなった回です。
誇り高き武士たちが、かつてないほど卑屈に、かつてないほど気高く、主君のために泣き縋る。善助たちの『一生のお願い』は、冷徹な敵の心さえも動かしました。
泥にまみれた彼らの手がっ差し伸べたのは、わずかな粥と、折れぬ忠義。
地獄の官兵衛へと繋がれたこの『蜘蛛の糸』が、物語を大きく動かしていきます。




