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第十一話 クルスの少女

 有岡城の土牢。光の届かぬ暗闇の中で官兵衛はかすかな『音』で目を覚まします。

 そこにいたのは、胸に木彫りの十字架クルスを抱いた十四歳の少女。

 絶望と復讐心に焼かれる軍師に対し、無垢な少女が説く『敵をも愛せよ』という教え。

 そのあまりに純粋で過酷な『救い』が官兵衛の心を激しく揺さぶります。

 数日後、官兵衛は『音』で目を覚ました。

 

 カサ、カサ、と土を払うような、規則正しい、しかしどこか(おび)えを含んだ音だ。

 その音は、死の静寂(せいじゃく)が支配する地下の空気を、薄皮を()ぐように静かに削り取っていく。

 

 重い(まぶた)を持ち上げると、土牢(つちろう)の隅に、昨日後ろ姿だけを見せたあの少女がいた。

 彼女は膝をつき、竹の(ほうき)を小さく切り詰めたような道具で、汚物にまみれた床を黙々と掃き清めていた。格子の隙間から差し込む冬の朝陽が、舞い上がる(ほこり)を金色の粒子に変えている。その光の粒が、彼女の周囲にだけ神聖な輪郭(りんかく)を与えていた。泥にまみれた官兵衛にとって、その光景はあまりに現実離れしており、意識の混濁(こんだく)が見せる幻覚のようにも思えた。

 

 「また、お主か……。」

 

 官兵衛の枯れた声が、湿った石壁に反響した。

 少女はビクっと肩を震わせ、手にしていた(ほうき)を落としそうになった。彼女は深く頭を下げ、震える声で名乗った。

 

 「は、はい……。な、名を()()……と申します。加藤又左衛門が娘でございます……。」

 

 「加藤……又左衛門……。」

 

 官兵衛は泥に汚れた記憶の糸を辿る。有岡城の番所を預かる屈強な武士の姿が浮かんだ。村重の信を得た実直な男だ。

 

 「はい。父に……時折、官兵衛様の身の周りのお世話をせよと……。」

 

 官兵衛は()い出し、ふじに少し近づいた。関節が(きし)み、肉が削げた四肢が悲鳴を上げる。

 昨日よりも意識がはっきりしている分、彼女の姿がよく見える。まだ幼さの残る少女だ。だが、その瞳には、この地獄のような有岡城には似つかわしくない、深い慈愛(じあい)の色が宿っていた。それは哀れみというよりも、何か大きな運命を受け入れた者の静謐さに近かった。

 

 「若いな……。いくつになる?」

 

 「十四にございます……。」

 

 十四……。官兵衛の半分の(よわい)も生きていない小娘が、なぜこれほど凄惨な場所に、迷いもなく入ってこられるのか。死の臭気と、裏切りの毒が充満するこの地下牢は、無垢な魂が耐えられる場所ではないはずだ。

 

 ふじは、官兵衛の、衰えを知らぬ鋭い眼光に()すくめられ、たまらず自分の襟元に手をやった。彼女の指先が握りしめたのは、粗末な木彫りの十字架(クルス)だった。使い込まれているのか、角が丸くなり、手の脂で鈍い光を放っている。

 

 「お主……キリシタンとやらか?」

 

 「は、はい。二年前、南蛮の教えを説くお方に出会い……デウスの御心(みこころ)に触れました……。」

 

 「ふん。デウス、だと……。」

 

 官兵衛は喉の奥で、砂を()むような笑いを漏らした。

 この戦国の世で、万能を(うた)う神だの仏だのが何の役に立つというのか。この土牢(つちろう)の寒さが残酷なまでに証明している。

 

 「なぜ、そのような者に(すが)る? お主のような、まだ何も知らぬ娘が……。」

 

 官兵衛の問いには(とげ)があった。しかし、ふじは一瞬だけ瞳を伏せたものの、次に顔を上げたとき、その眼差しには確固たる意志が宿っていた。

 

 「そうせずには……いられなかっただけにございます……。」

 

 「なんと?」

 

 「父が(いくさ)(おもむ)くたび、私は……ずっと願うてまいりました。我が家が生き残るためならば、名も知らぬ父や子が、どこかで無残に果てればよいと……。

 そのような(みにく)き心を(いだ)いたまま生きる日々は……まるで……光の()さぬ暗き土牢(つちろう)に繋がれておるようでございました……。」

 

 ふじの声が(かす)かに震える。それは罪の告白であり、官兵衛という『今の地獄を体現する存在』を前にして溢れ出した本音であった。

 

 「けれど……デウス様は仰せになられました……。『(なんじ)、敵をも愛せよ』と……。そのお言葉を聞いたとき、私の心に閉じ込めていた暗闇に、初めて光が()した気がしたのです……。」

 

 官兵衛は言葉を失った。

 

 (敵をも愛せよ、だと? そんな甘い言葉で、この血塗られた乱世が救えるとでも思っているのか……。)

 

 官兵衛の胸の内で、再び黒い炎が()ぜた。愛という言葉は、裏切られた者、捨てられた者にとっては、何よりも毒々しい侮辱(ぶじょく)でしかなかった。

 

 「お主のデウスとやらに伝えておけ。」

 

 官兵衛は、鉄格子を掴む手に力を込めた。指の節が白く浮き出る……。

 

 「もしこの官兵衛を救えるならば、そのような甘い言葉などいらぬ。今すぐ、わしに復讐の知略を授けよとな。それこそが今のわしが求める唯一の救いだ。それができぬなら、お主も二度とわしの前でその十字架を握るな。」

 

 その言葉は、もはや呪詛(じゅそ)であった。官兵衛の眼光は獣のそれへと変じ、少女を威圧する。

 だが、ふじはひるまなかった。彼女は官兵衛の剥き出しの憎悪を真っ向から受け止め、静かに、しかし(あらが)(がた)い力強さを込めて告げた。

 

 「はい……。ですが官兵衛様。デウス様は時として、復讐よりも過酷な『道』をお示しになります。それが、今の私には……この有岡の暗闇の中で……あなた様を、決して死なせぬこと……。」

 

 ふじは持ってきた盆から、湯気の立ち上る器を差し出した。

 官兵衛は無言でそれを見つめた。

 

 絶望の果てに、初めて触れる『他者のぬくもり』……。

 知略を武器にし、他人の心を駒のように扱ってきた官兵衛にとって、ふじの放つ無償の献身は、どのような軍略よりも理解しがたく、そして恐ろしいものだった。

 

 (こやつ……わしを(あわ)れんでおるのか。)

 

 官兵衛は、差し出された器を奪い取るようにして受け取った。

 指先から伝わる湯の熱さが、()てついた血を無理やり巡らせる。その温もりは『愛』と呼ぶにはあまりに鋭く官兵衛の心を(えぐ)り、『信仰』と呼ぶにはあまりに泥臭く生々しかった。

 

 しかし、その湯を飲み干すとき、官兵衛は確かに感じたのだ。

 ふじがもたらした光と温もりは、彼の魂を優しく救うためのものではない。それは、復讐という名の鎖で彼をこの世に繋ぎ止め、地獄の底を()ってでも生き延びさせるための、冷徹で強靭(きょうじん)(くさび)となったのである。

 

 官兵衛は器を戻し、背を向けた。

 ふじの去っていく足音を聞きながら、彼は暗闇の中で自らの喉元に触れた。まだ、脈打っている……。この『生』という地獄を終わらせることは許されない。それを、あの少女の瞳が宣告していた。




 第十一話をご覧いただきありがとうございます。

 知略を誇った軍師、官兵衛が自分よりも遥かに若い少女の瞳に、己の『業』を射抜かれるシーンを描きました。


 史実に詳しい方なら黒田官兵衛=ふじという事でピンときたかもしれませんね。


 ふじがもたらした温かい湯の熱さは、果たして慈悲か、それとも死ぬことを許さない『呪縛』か。

 暗闇の中で再び脈打ち始めた官兵衛の心臓が、彼をどのような運命へと突き動かしていくのか。


 物語はここから、さらに加速していきます。

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