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第十話 奈落の底

 有岡城を訪れた官兵衛を待っていたのは、信じがたい裏切りの連鎖でした。

 主君、小寺政職の保身によって『生贄』として差し出された軍師。

 光の世界から、一瞬にして湿った泥の底へと叩き落された官兵衛の、最も長く、最も孤独な戦いが始まります。

 「官兵衛殿、ごめん!」

 

 その叫びは、官兵衛の耳を裂く凶音(きょうおん)となって響いた。

 静寂(せいじゃく)を保っていたはずの広間。その四方の(ふすま)が一斉に蹴り倒され、漆黒(しっこく)の闇から抜刀(ばっとう)した兵たちが雪崩(なだ)れ込んでくる。

 官兵衛は反射的に腰へ手を伸ばしたが、そこには何もない。城門で刀を預けていた。丸腰の軍師に、抜き身の刃が容赦なく突きつけられる。

 

 「官兵衛殿……わしを恨むな。」

 

 頭上で、荒木村重の声が降ってきた。それは許しを乞う響きではなく、自分自身に言い聞かせるような、乾いた響きだった。

 官兵衛は、武器を持たぬまま捻り上げられた腕の痛みの中で、村重の足元を見つめた。豪華な(はかま)の裾が(ひるがえ)り、遠ざかっていく。それが、官兵衛が最後に見た『光の世界』だった。

 もはや言葉を発する隙さえ与えられず、官兵衛は両脇を抱えられ、引きずられていく。

 美しい廊下、華やかな欄間(らんま)、日の光を浴びた庭園。それらが後方へと流れ去り、次第に空気は湿り、重く、死を予感させる冷気へと変わっていった。磨き上げられた廊下の感触が消え、ざらついた土の感触が全身を撫でる。その境界線こそが、官兵衛の人生が暗転した瞬間であった。

 

 「ここだ!放り込め!」

 

 荒々しく投げ出された先は、地下にある土牢(つちろう)だった。

 石と泥が混じった床は、絶えず結露したような湿り気を帯びている。官兵衛は()いつくばったまま、背後で重い鉄格子が閉まる音を聞いた。ガチャン、という無機質な金属音が、彼のこれまでの人生を完全に遮断した。

 

 (すべては、小寺の家を守るための戦いだった……。)

 

 土器山(かわらけやま)では、わずか三百の兵で十倍の赤松軍を夜襲(やしゅう)で粉砕した。

 英賀(あが)の海に五千の毛利勢が迫った折には、わずか五百の手勢で負けてしまわぬよう、地元の百姓たちに(のぼり)を持たせて大軍に見せかけ、一歩も引かずに追い払ってみせた。

 百姓の力まで借り、泥を(すす)り、知略の限りを尽くして主君、政職(まさもと)殿の安眠を守り抜いてきたのだ。授かった『小寺』の名を播磨の誇りとして掲げ、誰よりも忠義を尽くしてきた自負がある。

 

 (それが……、この(むく)いか……。)

 

 窮地を救い続けた報酬が、この土牢の悪臭と、主君による生贄(いけにえ)としての放逐(ほうちく)

 捧げてきた忠義が大きかった分、官兵衛の胸中に渦巻く殺意は、黒く濁った炎となってその身を焼き焦がした。

 

 (この官兵衛を、捨ておったか……。)

 

 その瞬間、胸の奥で何かが()ぜた。

 主君・小寺政職(まさもと)。あの優柔不断で、しかしどこか憎めないと思っていた主君を守るために、どれほどの血を流し、どれほどの眠れぬ夜を越えてきたか。その報いが、自分を『生贄』として敵に差し出すという卑劣(ひれつ)な裏切りだったのか。

 

 (なんという……、なんと(みにく)い……。わしが捧げてきた忠義は、あのお方にとっては、ただの延命の道具に過ぎなかったのか。おのれ、小寺政職(まさもと)貴殿(きでん)のその浅はかな保身(ほしん)が、わしをこの穴底へ叩き落としたのだ!)

 

 小寺への殺意に似た憤怒(ふんぬ)が、体の芯を焦がす。だが、怒り以上に彼を苦しめたのは、己の『盲信(もうしん)』だった。天下の動静(どうせい)を見抜き、信長と秀吉という巨頭を繋いだこの自分が、最も身近な主君の『毒』に気づかなかった。その致命的な隙が、何よりも官兵衛の自尊心をズタズタに引き裂いた。『軍配者(ぐんばいしゃ)』を自称し、他人の腹の内を読んできたつもりの自分が、これほど無様(ぶざま)に踊らされていた。その事実こそが、この暗い穴底よりも深く、彼を絶望させたのである。

 

 幽閉されてから、数日が経った。

 

 土牢の中には『時間』という概念が存在しない。格子窓から差し込むわずかな光が、床の上を這うように移動する。それだけが、外の世界がまだ動いていることを示していた。

 不衛生な環境は容赦なく体力を奪う。排泄物の臭気が鼻を突き、皮膚には不気味な湿疹が広がり始めていた。

 かつては知略を巡らせた官兵衛の頭脳も、今や(うず)く関節の痛みと、絶え間ない寒気によって思考を遮断される。湿った土の壁がじわじわと迫ってくるような錯覚に、幾度となく気が狂いそうになった。自分の手足が自分のものでなくなっていくような、奇妙な感覚。爪の間にこびりついた泥を剥ぐ気力すら失せ、官兵衛の目はただ、虚空(こくう)の一点を見つめるだけとなっていた。

 

 (このまま……ここで朽ちるのか。わしの志は、この泥の中で腐り果てる運命なのか……)

 

 意識が混濁(こんだく)し、寒さで震えも止まらなくなったある夕刻。

 格子越しに、一つの影が落ちた。

 官兵衛が顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。

 まだ幼さの残る、しかし(りん)とした(たたず)まい。彼女は官兵衛の惨状を見て一瞬だけ目を見開いたが、すぐに震える手で、清潔な着替えを差し入れた。

 

 「これを……。」

 

 それは、この地獄には似つかわしくない、清らかな声だった。

 官兵衛は泥にまみれた手で、その白い布に触れた。乾いた、陽の匂いがする。その暖かさが、今の官兵衛には劇薬のように身に染みた。

 

 「着替えが終わるまで、後ろを向いております……。どうぞ……。」

 

 少女はそう言うと、静かに背を向けた。

 その華奢(きゃしゃ)な背中は、土牢の重苦しい空気の中で奇跡のように清廉(せいれん)だった。官兵衛は無言で、ボロボロになり、自らの屈辱を染み込ませたような衣を脱ぎ捨てた。

 震える指先が新しい布地に触れるたび、死に(たい)だった心臓が、(かす)かに、だが確かに脈打つのを感じる。それは『生』への執着か、それとも名もなき少女への困惑か。剥き出しになった己の体が、これほどまでに(もろ)く、小さいものだったのかと、彼は暗闇の中で自嘲(じちょう)した。

 

 着替えを終え、官兵衛が短く

 

 「済んだ……。」

 

 と告げると、彼女は振り向かずに、官兵衛が脱ぎ捨てた汚れた衣を大切そうに抱え上げた。その『小寺』としての過去が染み付いた残骸(ざんがい)を、彼女は(いと)うこともなく受け取ったのだ。

 

 「また、参ります……。どうか、御身(おんみ)を大切に……なさいませ……。」

 

 それだけを残し、彼女は闇の中に消えた。

 

 重い足音が遠のき、土牢に再び『死の静寂』が戻る。しかし、先ほどまでとは何かが違っていた。官兵衛を包む布地からは、陽だまりのような温もりが微かに立ち上っている。それは、暗黒の底に投げ込まれた唯一の、そしてあまりに細い希望の糸のようでもあった。

 

 官兵衛は、手元に残った微かな清涼な匂いを頼りに、深い眠りへと落ちていった。

 その眠りの中で、彼は初めて、小寺政職の首を絞める夢を見た。


 第十話をご覧いただきありがとうございます。

 知略を誇った軍師が、己の『盲信』を突きつけられ、絶望の淵で一人の少女と出会うシーンを描きました。

 泥にまみれた官兵衛の心に、ふじが差し入れた清潔な衣。その温もりが、彼の中に新たな『生』への執着を芽生えさせます。


 しかし、眠りの中で見た夢は、もはやかつての忠義の士のものではありませんでした。

 暗黒の土牢で、官兵衛の知略はどのように研ぎ澄まされていくのか。

 ぜひ、次話もご期待下さい。


 あっ本日からRoyal Roadにて本作の英語バージョンも連載開始しました。『SILENT REBELLION』で探せると思います。

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