惜別の、moon
こうして夜空を見上げるのも、今夜が最後になる。
明日の朝には、私は消えてなくなっているはずで、そう思うと、今夜の月はとても美しく高尚なものに見えた。
"現世に、心を遺したまま逝ってはいけない"
(規約にそうあったっけ……)
私は心で呟き、心で薄く笑った。
壮年に差し掛かった頃、私はある病に侵され始め、そしてしばらくすると記憶力も計算力も応用力も失い、思考回路、運動機能も低下して、最近ついにただ眠っているだけの植物人間となった。
まばたきを使っての意思疎通が最低限だったが、それももう終わり。
(消費期限が切れるって、こういうことなんだな)
死が近づいていることはわかっていた。
が、それにしても。
(現世に心を遺すって、どういう意味なんだろう。未練ってこと?)
それが、喉に刺さった小骨のように、ずっと引っかかっていた。
家族と言える人はいないし、愛を語り合った人もいない。しがらみからも極力遠ざかり、世捨て人のように過ごしてきた。
そんな私に、未練などあるのだろうか?
早くに亡くなった両親の遺産が膨大だったから、お金には困っていない。もし遺ったとしたら、それは社会福祉へと寄附。
私の枕元には、更新をストップしているエンディングノート。
目をそうっと開ける。窓から見える、夜空に浮かぶ月が、視界にと入ってくる。漆黒の空に丸い穴でもあいているように、満月は今夜、しっかりとそこに存在する。
私がこの日を選んだのは、計算式から求めた結果だ。
月を愛している。
月を見ながら死にたい。
願はくは桜の下にて春死なむの境地なのかも知れない。
夜空を横切っていく月が、ベッドに横になっている私の視界に入り、窓が邪魔しない角度と、そこに天気などの気象条件を加味した結果。
私はこの日。
尊厳死を選んだ。
これ以上を望まない。
私は目をつぶる。
すると、ウーーーンという低い音が耳に入ってくる。病院あるあるの機械音。そして、ぼそぼそと人の声だろうか。この世界に、静寂な場所は皆無。
ただ、これから静かな場所へと向かうのかもしれないな、やってくる眠気とともに、そう思った時。
まぶたの裏側がやけに明るかった。
(ああ、さっき見た月、だ……)
もう一度、目を開けて見ようとした。けれどもう、まぶたは開かない。
"現世に、心を遺したまま逝ってはいけない"
その意味がこの瞬間、わかった気がした。
惜別の、月




