これだけけして手放せない
オリヴェイラのお姉様の話 反省はしていない
遠くで、馬のいななく声がきこえる。
その音でふと目が覚めた。よくよく耳を凝らせば、男達の怒号と、微かに聞こえる弱々しい男の声。
聞き間違えるわけがない。だって、それは、私が唯一愛した男のそれなのだから。
「ジョ………シュア。」
ガタリと、体が落ちる。自分を運ぶために改造されたこの馬車は、座席が広く作られているとはいえ寝るのには狭くて、それを支えるための侍女も今はいない。
それでも、愛する男のために爪を扉に突き立てる。
「ぉね……がい………その人………一緒に………」
だって、愛しているのだから。例え妹の夫であっても、ずっと。
──ずっと、妹が憎かった。
ミルクをたっぷり混ぜたような紅茶色の髪に、星の瞬く空のような青い瞳。私が唯一恋した男の隣で微笑んで、父からの優しい眼差しを受けてなにも知らないかのように純真なオリヴェイラ。
風が吹けばよろめいて倒れてしまいそうな華奢なその体も、私の好きなかわいらしいドレスを着こなすその可憐さも、不幸なのだと言わんばかりのその顔も、なにもかも。
こわくて、こわくて仕方なかった。
水の都と呼ばれる美しい国、ウォールリリー。その第一王女として生まれ落ちたのが私、エリザベータ。
側妃腹ではあったが正妃腹の第一王子である兄が儚くなり、齢5つにして次期女王になることが決まったのが20年前。
まさに、地獄のような日々だった。
起きてから寝入るまで、自由などない環境で次期女王として数々の知識を叩き込まれ、出来なければ父から叱責される。
兄なら出来たのに、兄ならばたやすくこなしていたのに、この程度、兄ならば──
出来るわけないじゃない!!!!!!!!!兄は、第一王子であった人は、本当に、素晴らしい人だったから。
いつだって優雅に微笑んで、どれだけ多忙でもそんなことはおくびにも出さず、母の違う自分にだって城で会うことがあれば気安く声をかけ、大人顔負けの知恵があるのにそれを振りかざすことなく、目の前の人に真摯に向き合って、常に周囲の期待に応え続けていた。
そんな、バケモノと、おんなじこと、出来るわけないじゃない。
「貴方なら出来るわ。」
そううっそり笑って、娘と同じ黒髪から、娘と違う黄金にも見える茶色の瞳を覗かせながら私を抱き締める母の腕の力が余りに強くて、怖かったことを覚えている。
消えてしまいたい、逃げだしてしまいたい、周り全てが敵に見えて、そんな大変な中、小さな離宮で庭園を見る妹が羨ましくて仕方なかった。
そんな私が、唯一心を開けたのが私の補佐としてつけられた、次期宮廷執事のジョシュアだった。
赤みの強い金髪に、焦げたキャラメルのような茶色い瞳、六歳になった私の前に現れた、私の執事。
初めて会ったとき、彼は緊張のあまり震えていた。それがあまりにも哀れで、共に紅茶を飲んだのはいい思い出だ。──その後、それを見ていたメイドから報告された教師から叱責されたけれども、自分を次期女王ではなく一人の令嬢として扱われたのがあまりにもひさしぶりで、心が温かくなった私は気にならなかった。
ジョシュアへの想いは日に日に大きくなっていった。ジョシュアの優しさが、献身が、私の最後の心の支えで、彼がいるだけで私の世界は幸せだった。
それが壊れたのは二年後、私が八歳の時。父が、末の妹のオリヴェイラの婚約者にジョシュアを指名してからだ。
妹は──オリヴェイラは体の弱い娘だった。正妃が病を得ながらも産んだ彼女は、生まれてすぐ死にかけたらしい。
そんな王女を高位貴族に嫁がせることは出来ない。かといって、生涯未婚のままなのは外聞が悪い。しかし、適当なところに嫁がせたらどんな目に遭うか分からない。故に、忠誠心が強く、何かあったらすぐ王宮の医師が駆けつけることが出来るほど近くに住む宮廷貴族。その中で最も年頃があうのがジョシュアだった。
同時に、私の婚約も結ばれた。海を挟んだ同盟国の第二王子。かの国では熾烈な王位争いが起きており、兄である第一王子に争う気はないと示すためこちらの国へと婿入りしたいという彼に失望したのを覚えている。
──こんな、軟弱で意志の弱い男がジョシュアの代わりに私の隣に立つ?そんなことは断じて許せない。
──ジョシュアの横に、彼の子供を産めるかどうか分からない妹が立つ?認められるはずがない。
私の唯一、私の全て、私の──愛しい人、それを、あんな美しい箱庭で、静かに愛でられ、育まれてきた妹に譲れる訳なんてなかった。
だから、彼を受け入れたの。だってそうでしょう?
ここまで我慢してきたのだから、それくらい許されたっていいじゃない。私は、次期女王なんだから。
許されないとしったのは、産んだ娘を妹に見せた時だった。
生まれてきた娘は本当にかわいくて、愛おしくて、彼の色をついではないことに、ほんの少しだけ安堵した。
「…………おめでとうございます、お姉様。」
一瞬、一瞬だった。妹の花のような容貌が凍り付いて、娘の耳をなぞったときに気がつかれたのだと理解した。
「どうか母子共にお体に気を付けてくださいね、……子供はすぐ弱ってしまうので。」
薄らと笑みを履く妹のその顔に、兄のそれを見た。
笑っているのに、冷たい眼差しでこちらを見下ろすあの男の姿を。なんで、忘れていたのだろう。
妹は、あの兄の同腹の兄妹だと言うことを。──悍ましいほどに、同じ顔をしているということを、どうして、見逃せていたのだろう。
最初は些細な違和感だった。
手足がほんの少ししびれるようになった。でもそれは、産後動かないとよくあることだと医師がいうから違和感を飲み込んで目をそらした。実際、体が重くて動けなかったから。
次に、夫とあうことがなくなった。
夜をともにすることも、顔を合わすのも苦痛だったから、目をそらしていたけれど、公務ですら顔を合わせなくなっていたことはおかしいと思ってはいた。──でも、書類仕事だけだったから気のせいだと思おうとした。
最後に、娘を取り上げられた。
でも、乳母に預けるのが王族の育て方だから、それが普通なのだと思って寂しい気持に蓋をした。
全部終わったのを知ったのは娘が生まれて半年後のことだった。
無邪気に、可憐に、微笑みながら沢山の書類を父と互いの夫の前で取り出した妹。
目を通せばそこにあるのは私の──次期女王の座を譲ることの同意書と離縁状。様々な契約書を微笑みながら妹読み上げて、こういった。
「ねぇ、お姉様。居場所くださいな。」
私は、全てを失った。
次期女王の座も、愛しい人も、かわいい娘も、名誉も、健康な体も、自慢の黒髪も、全て。
「これだけですんでよかったじゃないの、殺されたっておかしくないのよ?」
そう嗤って私の娘を抱き上げて、わざわざ会いにきたのはもうひとりの妹だった。
「私もすぐこの子を育てるために領地へと向かうから最後に教えてあげるけれども、貴方のお母様が悪いのだもの、仕方ないわよねぇ。」
しらない!!しらなかった!!あのバケモノ達の母を私の母が殺しただなんて!──私を王位につけるために兄も手に掛けていたなんて!
「私がオリヴェイラだったら殺してたわ。母と兄を奪われて、夫も奪われて、あの子の体が弱いのも毒のせいなのよ?まぁ、貴方の元旦那様の国の薬のお陰でだいぶよくなったみたいだけど。」
「お姉様。お勉強は出来ても人の気持ちとかまったく分からないんだもの、奪われたのなら奪い返されたって文句言えないのに…どうして全部自分の物だって思えるのかしらねぇ?」
「そもそも──知ろうとしなかったの間違いでしょう?本当に知ろうとしたらすぐ分かるもの、あぁ、でも、そうやって知ることが出来なかったのだからはじめから王の器ではなかったのかもね。」
この子はそうならないようにしなきゃ、と私の娘の頬をつついて笑う女が、悍ましくてしかたない。
「さようなら、もう二度とその顔見せないでね。……次顔を見せたらオリヴェイラが我慢しても、私は我慢しないわ。さようなら、お兄様を殺した人殺し。」
──どこから間違ったのだろう。
優しかった兄の瞳に、冷たい色が宿るようになった日のことを忘れていた時からだろうか。母の野心を、見て見ぬ振りしたときからだろうか、それとも─恋を、したときから?
もう、自分の力で起き上がることすらもうできない。しびれは全身に広がって、思考は常にぼやけている。
遠くから自分を見つめるキャラメルのような瞳だけが正気でいられる唯一の楔だった。それだけは、今も昔も変わらない。
「ジョシュ……ァ…」
キャラメル色の瞳が緩む。優しい、大好きな色。こんなに醜く成り果たのに、貴方のその暖かな色が変わらないのが酷く嬉しい。
「あいし…て……」
貴方を手放すことが出来ないの、貴方を落ちぶれさせても、貴方を苦しめても、貴方に嘘をついてでも、傍にいて欲しいの。
「勿論、永久に。」
ひさしぶりに触れたその体温は、酷く優しく温かった。
この後ジョシュアは切り捨てられるしお姉様も数ヶ月しか生きれない。