人魚を足で釣る
「人魚を釣るには足が一番や」
じいちゃんは酒を飲みながら縁側で教えてくれた。じいちゃんの左足に小指はない。きっとじいちゃんは小指を犠牲に人魚を釣った。
僕は絵を描くのが好きで運動が嫌いだ。小学校を卒業し、冴えていない自分が突然に変わる。なんてことは勿論なく、変わらず絵を描くほうが楽しい中1になった。小学校高学年になる前には、誰も相手してくれないことを察する程度には空気が読めた。これを成長と呼ぶなら、残酷なものだと思う。小学校では足が速いやつがモテて、足が遅い僕はモテなかった。わかりやすい理屈は嫌いではない。顔も賢さも合格点に満たなかった。僕を相手にするよりも親しい相手に時間を割きたいはずだ。
それでも、足が速いやつは逆立ちしたって動けるのだからずるい。僕は逆立ちができないし、なんなら前転するのもちょっと怖い。本来、人間がするべき動きではないのに、どうして授業に前転を組み込んだのだろう。逆立ちだって、フンでも転がさないかぎり必要ないように思う。なんのためにサルから進化したのだ。僕は「命を守るための行動」を取っている。人に向き不向きがあるとして、確実に運動ではないことが早めにわかったのはよいことだ。ぐずぐずするより、できることに情熱を傾けられる。それが僕にとっての絵を描くことだった。誕生日を迎えると、身体と一緒に恐怖も育っていく。本当に欲しいものはケーキではなくて、適応力とかそんなやつだ。
そんなしみったれた本音を聞いてくれるのが、母方の祖父に当たる茂じいちゃんだ。長期の休みになると、電車で一本という立地もあって、よくじいちゃんの家で過ごした。
じいちゃんは釣りが好きで、町外れの沼まで連れていってくれる。鬱蒼とした林を抜けると、水草の生えたこじんまりとした沼がある。地元民でも知る人ぞ知る、というより本来釣り場でもないのかもしれない。じいちゃんは釣り道具、僕はスケッチブックをトートバッグに入れて日陰を選んで歩いていく。
魚は好きだ。鱗は光を反射し、規則的な美しさを見せてくれる。僕は青いバケツに詰められていくじいちゃんの魚をスケッチする。動いているほうがいいだろうとじいちゃんは言うけれど、不自由な狭いバケツの中で死んでいく魚を見るのが背徳的でちょっと好きだ。台所ですでに切られた赤い肉を見るより、無情な命の終わりが感じられる。死んだ魚は僕に似ていると言うと、じいちゃんが「足があるやろ」と応えた。確かに僕はばた足でも一応泳げるし、地面を立って歩ける。空だって飛べると、飛行機雲を見て思う。
「一番可哀想なのは人魚や」
「なんで?」
「人の頭があるのに、水の中でしか生きられへん」
人魚姫を題材にしたアニメーション映画を思い出す。なまじ賢い頭があると、不自由に気付くということか。そうだねと返して、僕は書きかけのブラックバスの頭のほうを半分消して、人間の上半身を書き足した。本当なら船で釣り上げるような大きな魚の部分がないと、人間の体を繋げられない。巨大魚を想像するとわくわくする。じいちゃんが覗き込んでスケッチブックに影ができる。
「ほんま、よう描けとるわ」
美術の授業以外で褒められるのは嬉しい。絵の評価基準は曖昧だ。正確な描写を評価されることもあれば、夢があっていいと褒められて入賞する子もいる。子供らしくていいなと参観日に洩らした大人は苦手だ。どこにだって、色んなことに少しずつ失望する僕みたいなやつがいる。勝手に子供らしさを見出ださないでほしい。皆が未成年なのだから、らしいのではなく全部が子供の絵ではないか。憤りを思い出しながら、人魚の顔を僕の顔にした。不機嫌さがよく描けている。でも、人魚姫じゃない人魚はイケてなくて、たしかに可哀想だ。
じいちゃんがよく人魚の話をするのは、この町に人魚伝説があるからだ。生前に魚を殺生しすぎたことで人魚になった漁師を成仏させるために造られた寺が残っている。また人魚を食べると、不老不死になれるともよく聞く。男の人魚なら食べられることもなかったのかもしれない。もしも、本当に人魚が美女なら喜んで口にする輩が出てくると思う。クラスの女子が嫌がっているとけらけらと笑っている原田たちは、人魚を刺身にしても盛り上がれそうだ。人魚もだらしない体で、腕毛も脇毛もぼーぼーのおっさんの姿ならいいのに。僕はスケッチブックの次のページに弛んだ裸のおっさんを描いた。どこか担任の広川に似ていて、目に黒い横棒を書き足しておく。先生は運動ができてお調子者の原田たちがお気に入りで、多くを語らない僕のことを暗くてやりにくい生徒だと思っている。同じ人類なのに、相容れないことが多い。それをやり過ごすのが大人になることなら、僕は一生子供のままなのかもしれない。
「このおっさん、誰や?」
じいちゃんがまたブラックバスを釣ってバケツに放り込み、僕のスケッチブックにぽたりと汗を垂らした。
「担任の先生」
「嫌いなんか?」
じいちゃんから目を反らして低くうんと答えると、じいちゃんは魚を持っていないほうの手を僕の肩に置いた。
「辛抱や」
来年のクラス替えに期待するしかない。変わるといいなとじいちゃんは釣り道具をしまい始める。一緒に釣らないかと誘われたのは一度きりで、それからは聞いてこない。いつか釣りたいと言ってみてもいいのだが、僕の経験上挑戦しても無駄に思える。なにも釣れないのが怖い。僕は自分の行動に多くの予防線を張っていて、無駄に悲しまないようにしている。じいちゃんが僕のための釣り竿を買ってくれているのを知っているけれど、まだそのときではない。そう言い聞かせている。
釣ったブラックバスは外来魚ボックスに捨てて帰る。行政が処理してくれるらしい。じいちゃんの釣りはフィッシングなのか、クリーニングなのかわからない。魚に罪はなくとも、増えすぎると処分される。やはり無情だと思う。
***
じいちゃんが夏祭りの準備で忙しい日、僕はこっそり釣り道具を持ち出して沼に向かった。下手なところを見せる前に練習すればいいではないか。五日後には家に帰るので、その前にじいちゃんを喜ばせたかった。
沼は相変わらず穴場なのか寂しいままだ。本格的な釣り人に見られたら恥ずかしいので、このほうがいい。じいちゃんがしていたようにハリスに繋がった鉤に見付けたミミズを刺して、沼に釣糸を垂らす。それらしくなったが、ウキは一向に沈まない。ただぼんやりと沼を眺めるだけになった。辛抱やとじいちゃんみたいに呟いても、結局無駄だったと早々に気持ちが諦めモードに入ってしまう。ウキを見るよりスマホを見るようになった僕は、酔っ払ったじいちゃんの人魚釣りの話を思い出した。僕は釣竿を地面に置き、沼のそばの小さな岩に腰かけた。右足の靴と靴下を脱いで、足を水に浸ける。夏の沼は生温く、ぬるりとした感じがした。底の見えない沼で足を動かして、波紋を作る。釣り道具よりかは自在に動かせるので、スボンの股までは濡らさぬように、水を蹴った。釣りではなくて、水遊びになっている。こんなことをしても魚は逃げるだけなのに。
人魚もそうだろうと思ったが、何かが足の指に触れた。水草とも違うざらついたものが這ったかと思うと、生暖かいものに足の指が包まれた。動物の舌かと思ったときには足首を掴まれた。何かに沼に引きずり込まれた。沼の中はやはりそんなに綺麗なものではなく、視界が悪い。足を掴まれ、足の届かない深さまで引っ張られる。このままでは死んでしまう。じいちゃんより先に逝くのか。暴れるとより沈んで、溺れる実感が湧いてくる。
もう駄目だと思ったとき、人影を見た。緑がかった水の中、銀色の長い髪が揺れている。その奥に二つの目があって、僕とたしかに目が合った。足は見えない。でも、足のあるはずの場所にはゆらめくヒレがある。息が持たず上に手を伸ばしても、この深さでは届くはずもない。意識が遠退いていく。
それでも、僕は人魚を見た。
意識を取り戻したのは奇跡、あるいは人魚の気まぐれだったのかもしれない。目を開けると先程の釣具の横に倒れていた。ごほごほと咳をして、水を吐き出した。全身から雨の日みたいなにおいがする。口の中は泥の味がして、リュックに入れていたペットボトルのお茶で口をゆすいだ。うっすら死にたいとと思って生きているけれど、助かると不思議と安堵し、地面に仰向けに倒れた。全身に土が付くが、ここまで汚れると気にならなくなる。空はまだ明るく、ざわざわと木々が揺れている。魚釣りは失敗したが、じいちゃんの言う通り人魚は足で釣れた。引きずり込まれたけれども、きっかけの足を出したのは僕だ。人魚を釣った高揚感に浸りつつも、溺れたせいか一気に体力も奪われている。そこで、じいちゃんの小指を思い出し、起き上がって足を確認した。右足の指はちゃんと五本ある。足を噛まれた気もしたが傷もない。引きずり込む腕の力はあったが、顎に力は入っていなかった。子犬の甘噛みみたいなものなのだろうか。
「びびった」
「シゲル、ごめん」
驚いて声のほうを見ると、先ほどの人魚が腕を使って沼からずりずりと這い上がってきた。人間の身体があるのだから、人間の言葉を喋っても不思議ではない。
「合図、ずっと待ってた」
ぽたぱたと水滴を落として、人魚は僕の足に抱きついた。人魚は上の服を着ていない。これは大変だと紳士的に上を向いた。ぬるりとしていても、赤ん坊の頃にしか触れることのない柔らかな肌の感覚が足に伝わる。思わず足を引き抜いた。駄目だ。これは冷静でいられない。思い出そう、広川を。原田を。その他を。
「マナのこと、わすれた?」
僕が体育座りで足を抱え込んでいると、マナが首を傾げた。濁った沼から這い出てきた者にしてはきらきらと輝き、先程と違った意味で鼓動が早くなっていく。
「シゲル?」
長い髪で胸がいくらか隠れても、僕は自分の手でその部分を目隠しした。僕は原田とは違う。広川は目、マナは胸を隠す。この扱いの違い。素直に神に感謝しそうになるが、そんな場合ではない。僕は茂の孫の仁で、人違いだ。
「シゲル、やっぱりおこった?」
泣きそうな瞳をみると胸がきゅっとした。
「……びっくりしただけや」
じいちゃん、ごめん。僕は駄目な孫です。心の中で深く頭を下げ、僕はじいちゃんの真似をして喋った。これはマナの目にじいちゃんを想う気持ちが窺えたからであり、そもそも僕は僕でいたくなかったからであり、僕が男子中学生という性質に抗えなかったというのもある。完全な下心。僕も原田と変わらない部分がある。にんげんだものなどと、らしくもない詩を頭に浮かべた。
「またあそぼう、シゲル」
僕が首を縦に振ると、マナはくしゃりと笑った。マナは僕が知る女性の中でいちばん、いやきっと地球上の誰よりも綺麗だ。夏の魔物は人魚の姿をしている。結局、僕のほうがマナに釣られてしまった。
マナとは明日も遊ぶ約束をした。魚は釣れなかったし、死にかけたというのに遊ぶ約束ですべてチャラになった。ちなみに、僕が釣りをしに来たと知ったマナは手掴みしたブルーギルをバケツにいっぱい入れてくれた。法令に則り、僕はそっと途中の外来魚ボックスに入れた。じいちゃん家に帰ると、庭のホースで一旦体の泥を落とした。生温いが、においのないきれいな水で生き返るかんじがする。水を止めるとばあちゃんはタオルを放り投げてくれた。
「仁ちゃん、なにやったん?」
「……水遊び」
「なんや珍しい。じいちゃんみたいなことして」
ばあちゃんの言葉に苦笑いしつつ、風呂場に向かった。服はバケツで一度つけおきしてから、洗濯機に入れるように言われた。明日は水着を持っていこう。それと、マナの上の服もいる。
じいちゃんの箪笥を開けて、町のスポーツ大会のくたびれたTシャツを選んだ。この服なら、じいちゃんも文句は言うまい。眠い頭で夕飯を取って、僕はすぐに眠ってしまった。
***
マナという名前はじいちゃんがつけてくれたものらしい。
久々に名前を呼ばれたのだと頬を染める姿をみて、胸がちくりと痛んだ。だが、名前をまな板から取ったと聞き、すぐにじいちゃんのセンスを疑った。
昼飯のあと、約束通りに沼に向かった。鞄にはダサいTシャツ、スマホと文房具とスケッチブック、水着と薄いバスタオルと水筒も入れておいた。
例の岩場で水面を十回蹴るとマナは現れる。子供がプール教室でやらされる、水に慣れる練習のようだ。昨日は夢を見ていたのではないか。そんな不安がありつつも、足をばたつかせた。すぐにぬるりとした何かに触れ、マナがぐっと足を掴んで顔を出した。こんなに簡単に釣れていいものかと心配になる。
「今日はなにしてあそぶ?」
あまり前を見ないようにして、Tシャツをマナに渡した。
「これ、着ぃ」
じいちゃんの言葉遣いはもっと乱暴だが、性格のせいかばあちゃんの喋り方に似てしまう。
「ありがと」
マナは嫌がることもなく、Tシャツを広げて嬉しそうに跳ねた。もしかしたら、じいちゃんもマナに上の服を渡したのかもしれない。水に濡れたTシャツは暗い色になるけれど、元が派手な色なのでよく目立つ。
「その色なら、見つけやすいやろ」
「きせて!」
一瞬躊躇したが、堪えた。着なければ視覚的効果がないのだから、着せるしかない。頭から被せて、手を引き出してやる。僕のよりサイズの大きいじいちゃんの服を選んで正解だった。きつそうでもなく、薄い生地でそこまで重たくならない。服の内側に入った長い髪の毛を出してやると、マナはまたありがとうと耳元で囁いた。今までの明るい子供のようなものとは違う言い方でまた顔が熱くなるのを感じた。
「これであそべる?」
また子供の声に翻弄されつつも、僕には別の抑えられない欲求がある。
「絵、描かせてくれへん?」
「エって?」
マナにスケッチブックを開いて見せてやる。マナは紙芝居を見る子供みたいに、めくっていくページを目で追った。精悍な石膏像のデッサン、自分の左手のスケッチ、美術部内で描いた五分のクロッキー。じいちゃんの引く山車も、公園のばかでかい木も描いた。でも猫を見るとマナは嫌そうに顔を歪めたので、すぐに風景画のページに移った。仮病で休んで描いた窓の外はお気に入りで、いつのまにか絵の具まで出してグラデーションを作っていた。エピソードを言わなくても、マナは目を輝かせて僕の世界を覗いてくれる。キレイと言ってくれたマナの顔のほうが綺麗で僕は唾をのんだ。そして死んだ魚と僕の顔の人魚を見ると、目を細めそっと鱗に触れた。最新作の裸の毛深いおっさんのページになる前にスケッチブックをさっと閉じた。絵を見て、マナも何かを感じることがあるのが嬉しかった。
「マナはべっぴんさんやから、描かなあかんねん」
正直に伝えるとマナは得意気に腕を広げた。かわいいけれど、磔にされているみたいなので、腕を下ろさせる。
「この岩に座って」
わかったと元気に返事をし、マナはずりずりと岩に乗った。土の汚れは手酌で流してやる。濡れた髪や鱗が反射して、水も滴るなんとやらだった。絵にしなくても完璧な存在があるというのに、僕は愚かにも鉛筆を握った。
いつの間にか音が消えていく。世界は僕と目の前のマナだけになった。
マナは僕より体が大きい。体を支える下の魚の部分は僕の身長と同じくらいある。魚の部分が約一六〇センチ、人間の胴体が八〇センチくらいだろうか。二四〇センチの体がどうやって沼の中で過ごしているのだろう。魚の腹の部分は白く、背骨と繋がった背びれの辺りは緑がかった銀色。尾びれは二つに分かれた楕円形。
マナの胴体は一見僕と変わらないように見えるが、首の両側面にエラ呼吸のための切れ目が見える。陸地でもときどき開閉している。指の付け根に水かきらしきものが見えるが、あまり意味はない。水中で暮らすマナにとって、人間の部分はあまり価値のあるものではないのかもしれない。
スケッチブックの二冊目に手をかけそうになって、僕は手を止めた。
「まだ?」
僕が現実に戻ってきたことで、マナも声をかけたようだった。鞄に入れたスマホを確認すると二時間も経っている。文句も言わずに付き合ってくれていたことに気付き、驚いた。干からびるのではないかと心配したが、マナは平気そうににぃと笑った。
「エのなかにもぐるのね」
急に詩的な表現をされて、照れくさい。時々、マナはじいちゃんと同じだけ生きた時間を感じさせる。落ち着いた大人な部分も僕をかき乱していく。頭を冷やすためにも提案した。
「ちょっとだけ、水遊びしよか」
待ってと言ってから、そばの木に隠れ、服を脱いで海パンに穿き替える。遊びに行くとき、母さんが無理やり持たせてくれた水着が役立つとは思ってもみなかった。
マナの元に戻ると、マナは水にぷかぷかと浮いていた。水草の多い沼だから、オフィーリアの絵画のようだ。描きたい欲求を抑え込み、曖昧な記憶の軽い準備運動をして、沼に足を踏み入れた。火照った身体に水が心地いい。
マナに水をかけると、尾びれをは動かして顔面にたっぷりの沼の水を浴びせられる。相変わらずいい匂いとは言えないけれど、草の匂いなのだと気が付いた。飛沫が上がる夏の空に、笑い声あるいは呻き声が響いた。大体、僕の鼻に水が入ったときで、口と鼻が繋がっていることを思い知った。
帰りに図書館に寄り道して、魚について調べた。スマホで見るより一覧で確認したかった。淡水魚のページを開いて、写真とスケッチを比較する。
マナは鯉に似た細長い魚、中国原産の草魚に似ていると思う。マナを外来魚だとするなら、なんだか言葉遣いも外国人のそれっぽさに思える。本物のソウギョは水草を大量に食らい、水生植物と共存していた日本の在来魚や水生昆虫に悪い影響を及ぼした。たしかに水草を噛んでいることがある。しかし、半分がソウギョだとしても、半分は人間なので雑食だと思う。なんてったって、じいちゃんの小指を食っている。僕もいつか噛みちぎられるのかもしれないが、今のところあぐあぐと足を甘噛みされるだけだ。こそばゆくてつい笑ってしまう。なぜ噛むのかと聞くと、そこに足があるからと真面目な顔をして答える。登山家の山みたいに、じいちゃんの血筋の男は噛まれる運命なのかもしれない。
年齢も正確にはわからない。じいちゃんが僕くらいの頃にこの成体の状態だとして、何歳になるのか。もしも人魚が不老不死、あるいは長命な種族だとするなら、マナを子供か大人かで区別してよいものかもわからない。マナについて調べるほどに、わからないという結論に至る。わからないことがわかったという自由研究を提出して、はたして点数はもらえるのか。
深く溜息をついて、図鑑を閉じた。
たとえ、マナがばあちゃんより年上だったとしても、僕はマナに恋をしている。でも、マナはシゲルが好きで、決して僕ではない。好きなら、もっと誠実であるべきだった。
次の日もマナと遊ぶ約束をしていたので、沼へと向かった。
途中で通りすぎる町は祭りの本番で昼から活気付いているが、マナの沼は今日も静かなままだった。潮時だと思いながら、水面を蹴った。
「シゲル、およがないの?」
ぼんやりしていたせいか、マナが腕を掴んでいた。これ以上行くと、僕は足が付かなくなる。
「泳ぎ方、忘れてしもた」
とっさの言い訳だったが、言葉がしっくりきた。狭い水槽の中で息苦しくて、身動きが取れない。やっぱり僕はバケツの中で死ぬのを待っている。
ずっと前から僕は卑屈だけれど、最初からそうだったわけではない。記憶はないが、稚魚のような僕にはそれなりの夢があって、もっと遠くまで泳げるようになると信じていたとは思う。だが、自分の駄目さに直面するたび、何も希望を抱かないほうが楽だと気付いてしまった。こういう思考回路が働きだすと、忘れたい記憶が次々とフラッシュバックする。鈍くさい僕を笑うクラスメイト、運動会で皆の前で足の遅い僕を見ている大人たち、平均以下のテストの結果、僕の絵に落書きした原田、原田が謝っているから許してやれと言った広川、しんどいなら家にいたらいいと慰めてくれた母さん。恥ずかしくて情けなくて悔しいことに蓋をして、平気なふりをしている。それから、ずっと息が苦しい。本当は分かっている。合わない水の中を泳ぐなんて無理だ。僕のひねくれた言い訳は僕を守るわけではなく、少しだけ今を長引かせているだけに過ぎない。本当は楽になる方法を探している。
「マナ、僕の話を聞いて……」
口を出た言葉はシゲルの言葉じゃなくなっていた。昨日までは幸せだったのに。途端に涙が溢れて、僕は水に潜った。きっと涙は水に溶ける。
するとマナは僕の手を取って、下に向かって泳いでいく。地上とは違い、マナはとんでもない力で僕を下へと連れて行こうとする。最初に出会ったときもきっとこんなふうに僕を連れ去ろうとしたのだ。けれど、僕の身体は浮き上がろうとする。今は力が入っていないせいか、足が自然と持ち上がる。これは。この姿勢は。
「逆立ち?」
僕の声に、マナは手を放した。口を開けたせいで、また息が苦しい。吐き出した呼吸の泡が消える前に、僕の下半身は水面に浮上する。足が先に風に触れ、外だと気付いた僕はぐるりと回って、頭をどうにか上に戻した。やっぱり身体はまだ生きていたいらしい。バケツの中の死はまだ僕には早いということなのだろうか。マナも水から顔を出した。
「シゲル、およげた?」
「バカ! また死ぬとこだった!」
思いのほか、大きな声が出た。こうして色んなことに言い返せばよかったのだ。緊張が解けて、もはや笑えてきた。二回も人魚に殺されかけることになろうとは。仰向けに浮いて、真上の太陽に目を細める。瞼の裏が真っ赤だ。マナは浮いている僕をそのまま足のつくところまで運んでくれている。運ばれながら、ようやく僕は本当のことを言った。
「ごめんね、マナ。僕はシゲルじゃない」
「うん、しってた」
指があるものと笑ったマナは僕よりずっと大人びている。高嶺の花だとわかっていたのに、こんなにも愛しいと感じる。やっぱり僕は馬鹿だ。
「気付いたなら、先に言ってよ」
「みとめたら、キミもいなくなっちゃう」
これがマナの本心だ。マナはまだじいちゃんに会いたい。うんと長い間、じいちゃんからの合図を忘れずに待っていたくらいなのだから、僕で誤魔化せるわけがない。
消えかかるオレンジ色の空を眺めた帰り道、山車は神社の境内付近に集まっていた。町全体が生き物みたいに騒がしく揺れている気がする。途中に見える神社に繋がる道にはいくつもの屋台が並び、赤い提灯が吊られている。昼よりずっと人が多い。通りすがる人が楽しそうに笑っている。夏祭りは遠くから見るほうが好きだ。光は遠くから見たほうがいい。立ち止まって祭りの明かりを見ていたら、また涙が落ちた。静かな恋の終わりに気付いてしまった。
友人として、孫として、僕にできることがひとつだけある。
帰る前に、マナをじいちゃんに会わせてあげよう。涙を拭って、じいちゃん家に帰った。
***
祭りの翌日、じいちゃんを釣りに誘った。じいちゃんは嬉しそうに僕の釣竿を渡して、また木陰を歩いていく。
「よう焼けとるな」
「どうせ戻るよ」
秋には痛みもなく剥がれるだろう。けれど、今年の日焼けは嫌いじゃない。マナとの日々の証だと、自然に腕を撫でてしまう。産毛が指に触れる。濃い腕毛にならなきゃいい。
「どうした?」
「なにが?」
「いつもとちゃうやんか」
心配そうなじいちゃんに首を横に振る。なにも嫌なことはない。こんなに楽しい夏休みは初めてだ。いくらか胸は痛むけれど、一晩寝ると覚悟が決まっていた。おそらく僕は二回死んで強くなった。これは前向きな成長。成長痛みたいなもので、辛抱できる。
「じいちゃんがいないときにさ、釣りをしてみたんだ」
「へえ」
「大物が釣れた」
「持って帰らなあかんで」
「外来魚だから」
この辺りは多いからなと、じいちゃんは釣り道具をセットしていく。僕はそっとサンダルを脱いで岩場に向かった。
感動の再会には程遠い。どうしたらいいのかわからなかったが、これしか思い浮かばなかった。一回、二回、三回……いつもよりゆっくりと水を蹴ると、じいちゃんが目を見開いている。やはりじいちゃんはマナの合図を忘れていない。この沼で釣りをするのもきっとマナのことを守りたかったからだ。九回目で甘噛みされ、十回目で腕を絡めたマナが足で釣れた。
「マナ」
じいちゃんを見たマナは誰かわからず、足を掴んだまま固まっている。
「今日はじいちゃん、シゲルを連れてきた」
じいちゃんは僕より背が高く、腰もそんなに曲がっていない。もう日焼けの色はとれないが、そのせいかワイルドなかんじもする。
「ほんとうにシゲル?」
「マナ、やっぱりおったんか」
声を聞いて、マナは手を離し、ぽちゃんと沼に潜ってから、またゆっくりと顔を出した。
「変わっとらんなあ」
じいちゃんが表情を緩め、マナのほうに近寄っていく。マナがじいちゃんの孫みたいに見える。それだけの時間が経っていて、それだけの時間を待たせた。
「シゲル、会いたかった」
マナの声は震えていて、じいちゃんは伸ばした手を引っ込めた。
「堪忍な。急な引っ越しで言い出せんかった」
じいちゃんは親の仕事の都合で引っ越して、この土地を離れた。やがて、大人になり、仕事に追われながらも、ばあちゃんに出会って結婚して、母さんが生まれた頃にあの家を買ったのだという。
「また会おう、思てたのになあ」
じいちゃんが僕のほうに振り返る。じいちゃんは僕の姿に若い頃を重ねている。白黒写真だが、僕はじいちゃんの若い頃にそっくりだった。マナが間違えたのも仕方ない。
「人と馴れ合っても、マナがつろうなるだけや」
僕とマナを諭すようにじいちゃんは言った。いつだって異分子は取り除かれる。わかっていても、納得はできない。このままではマナがまた一人ぼっちになってしまう。
「マナはずっとじいちゃんを待ってたのに」
「純粋な生き物なんや。人と触れあっても幸せにはなれん」
「じゃあ、マナはずっと一人なの?」
「辛抱や」
一年、もっと先まで我慢しろと言うのだろうか。みんなが人魚を忘れるまで、マナは一人で沼の底にいるのを想像して怒りが込み上げてくる。
「マナがじいちゃんを忘れないのに、幸せになんてなれるわけないじゃん」
僕の声が林に響く。じいちゃんが謝れば、どうにかなると思っていた。けれども、どうにもならない。じいちゃんはもうマナとは別の世界を選んで、大人になったのだ。
「僕はマナのそばにいる!」
僕の宣言にじいちゃんは目を丸くしている。マナの頬に手を伸ばした。柔らかな頬を流れる涙は僕らと同じものだ。
「マナ、僕を信じて」
「ジンはどこにもいかない?」
「行かない。大人になっても、ここに戻る」
将来の不安が一番あるのに、僕は言い切れてしまう。マナがいない場所で僕は泳げないし、きっといつか沈んでしまう。僕はマナを置いていきたくない。それが我儘だとしても、子供の理屈だとしても、僕はそれだけは譲れない。世界で一番美しいものを忘れられるわけがない。
「もう、うそつかない?」
「約束する。僕の小指もあげる」
右足を出すと、マナがぱくりと口に含んだ。呆然としていたじいちゃんが止めるより前に、マナは小指を噛み千切る。やはり今までは甘噛みだった。
激痛が走って、僕は意識を失った。
目が覚めると、病院にいた。
足は処置され、布で見えない。駆けつけた母さんによると、痛み止めが効いている。たしかに痛みはあまりなく、熱っぽさだけがある。感染症を起こさないか様子を見ながらの入院だと知らさらた。母さんが飲み物を買いに席を外すと、頭を抱えていたじいちゃんが口を開いた。
「春子も美樹も、かんかんやったで」
春子はばあちゃんで、美樹は母さんだ。
「マナのことを話した?」
「言えるか、阿呆」
「よかった」
胸を撫で下ろすと、じいちゃんはパイプ椅子から立って小声で教えてくれた。
「別の沼にアリゲーターガーが出たんや……まあ、ほんまにおるかもしれんし」
じいちゃんはマナのいる沼とは違う沼の名前を皆に知らせてくれたようだった。祖父と孫の二人ともが小指を失う悲惨な事件は町で噂になっている。
「あのな、じいちゃんの指は最初にマナに出会ったときにうっかり噛み切られただけやぞ」
「指切りしたんじゃないの?」
「さすがにエンコ詰めはせん。ほんまに、心臓止まるか思たで」
「ごめん、マナに信じてもらいたくて」
じいちゃんは、はあと深く息を吐いてから、ごんと頭にげんこつを落とした。
「いった!」
「お前の指はほとんどあるけどな、歩くのも仕事するのもしんどいで。ほんまにわかっとるんか?」
マナは小指のほんの先端を噛み千切ったらしい。人間の小指は脆い部分で簡単だったことだろう。
「責任はとる。努力もする。それに……」
「なんや」
「人魚ばかり食われるのはよくないと思う」
じいちゃんがもっと強いゲンコツをお見舞いしてくれた。じいちゃん譲りの拳があれば、原田にもやり返せるかもしれない。
怪我が治るまで、沼の遊泳は禁止。というか、元から沼では釣りも遊びもしてはいけない決まりになっていた。誰も来ないわけだと納得しつつも、僕は休みのたびにマナに会いに行くようにした。いつしかスケッチブックがマナで何冊も埋まり、中三の夏に描いた人魚の絵はついにコンクールで特選に選ばれた。夢がある絵だと部活仲間に言われ、つい笑ってしまった。
僕の小指は欠けてしまったが、大きなものを釣り上げるには犠牲が付き物だ。それにマナに名前を呼ばれると、僕はどこでだって息を吹き返せる。
エラ呼吸だって夢ではないのかもしれない。(了)