第三章:金太郎 ―東の山の焔―(前編)
風が吹き抜ける。木々がざわめき、霧が尾根を包んでいた。
東の山へ向かう道中、静かな林に差しかかった頃。
桃太郎と浦島が先を行く中、かぐやは一人、足を止めた。
静かな小川のほとり。
水面に映る月を見つめながら、彼女はそっと問いかけるように呟く。
「……私は、導いているつもりでいて、誰よりも迷っているのかもしれない」
月の巫女――そう呼ばれてきた。
けれど、自分自身の名前を、誰かに呼ばれた記憶がない。
使命に縛られ、言葉を選び、感情を閉じてきた。
桃太郎や浦島が“自分の過去”に立ち向かう姿を見て、ふと胸の奥に波が立った。
「……私は、“役割”でしかないの?」
その時、桃太郎の声が遠くから届いた。
「かぐや、何してる。こっちだ」
はっとして顔を上げる。
「……行きます」
再び歩き出しながら、彼女は胸の奥に芽生えた違和感を、そっと包み込んだ。
東の山――その奥深く、人の足が踏み入れぬ地に、一人の男が棲んでいた。
彼の名は金太郎。かつて山の動物たちと遊び、斧一本で鬼を討った英雄。
だが今、その面影はほとんど残っていない。
逞しい体は鎧のような筋肉に覆われ、背負う金の鉞は巨岩をも断つ重み。
瞳はかつての純粋さを残しつつも、どこか深い哀しみを湛えている。
金太郎は、山奥にある古びた祠に向かい、ゆっくりと膝をついた。
祠の奥には、無数の鬼の面が奉納されている。そのどれもが、彼の手で斬られた“かつての敵”だった。
「……これで四百七十六体目だ」
静かに呟いたその声は、風に紛れて消えた。
鬼狩り。
それが彼の今の生業であり、呪いでもあった。
彼は“鬼”を倒すたびに何かを失っていった。それが“何か”と問われれば、彼自身もうまく答えられない。
だがある日、その山に変化が訪れた。
「……この気配は――人か?」
風の匂いが変わった。金太郎は鉞を背負い直し、獣のように岩場を駆け下りる。
そこにいたのは――桃太郎、浦島太郎、そしてかぐや姫。
「……金太郎」
桃太郎が名を呼ぶと、金太郎は一瞬目を見開いた。
「……桃。……まだ、生きていたのか」
「お互いにな。ずいぶんと山に籠もってたらしいじゃねえか」
金太郎は無言のまま三人を見つめた。そして、かぐやの方を一瞥し、低くつぶやいた。
「“月の巫女”まで来たか……ってことは、俺にも役目があるってことだな」
「ええ。あなたもまた、“東の月”として生まれた者」
かぐやの声に、金太郎は目を伏せた。
「だが……俺は、鬼の血を引いている」
「……何?」
浦島が眉を上げる。
金太郎は静かに語り始めた。
「昔、俺の母は山の神の娘だった。だが、父は人に化けた鬼だったらしい。……俺は人の皮をかぶって生きてきたが、斧を振るうたびに思うんだ。俺が“鬼を斬る”のは、俺の中の鬼を否定するためじゃないのかって」
桃太郎はその言葉を、しばらく黙って聞いていた。
やがて、ゆっくりと一歩、金太郎に近づいた。
「俺は昔、お前と鬼ヶ島で共に戦った。お前がどんな血を引こうと――お前が俺たちを守ったことは、変わらねぇ」
金太郎の目に、微かに光が揺れた。
「……あの時、猿も、雉も、犬も、あんたと一緒にいた仲間も……皆、何かを守ろうとしてた。あれは……嘘じゃなかった」
「なら、また一緒に来いよ。鬼も人も、時間さえも狂い始めてる。お前の力が、今度は“未来”のために必要だ」
しばしの沈黙。
だがその後、金太郎は深く息を吐き、背の鉞を持ち上げて肩に担ぐ。
「……分かった。だが、その前に一つだけ……俺と戦え、桃っ」
「なんだと?」
「昔みたいな“友情の確認”じゃない。俺が“鬼の血”を超えたかどうか、それを確かめるための本気の一撃だ」
桃太郎は静かに剣を抜いた。
「――上等だ」
かぐやと浦島は、それぞれ少し距離を取り、二人の間に張り詰めた気配を見守る。
斧と剣。山の咆哮と海の静寂。
二人の“月の子”が、今、真正面からぶつかり合う――。