第二章:浦島太郎 ―南海の時の狭間―(前編)
深海は、まるで時を忘れた世界だった。
光も音も届かぬその場所に、ただひとつだけ、異質な輝きがあった。
――竜宮城。
その城の奥深く、玉座の間の裏手にある静かな部屋で、一人の男が眠っていた。
白い装束に、褪せた黒髪。顔は少年のまま、しかし瞼の奥には長い夢を見続けた者の静けさが漂っている。
その名は、浦島太郎。
かつて、亀を助けた恩で竜宮に招かれ、乙姫と共に夢のような日々を過ごした男。
だが、ある日彼は地上への帰還を望み、玉手箱と共に地上へ戻った。
戻った先にあったのは、全てが失われた世界。そして玉手箱を開けた時、時の流れに呑まれ――彼は再び竜宮へと戻されたのだった。
「……時は、満ちようとしています」
乙姫の声が響く。彼女は、眠る浦島のそばに立ち、ゆっくりと両手をかざす。
白い光が浦島の額に注がれ、その瞼がゆっくりと開かれる。
「……おれは……ここは……」
「竜宮です。あなたは再び、目覚めの時を迎えました」
「……乙姫?」
「はい。浦島太郎様、あなたは今、“月の子”として呼ばれています」
浦島はゆっくりと起き上がる。
玉手箱がそばにあり、かすかに脈動していた。
その箱は、時を閉じ込め、未来を切り裂く鍵であり、封印であり、そして呪いでもあった。
「……あの時、俺が開けたのは……運命そのものだったのか?」
「玉手箱はただの道具ではありません。あなたの命と時を繋ぎ、封じる“月の器”……そして、これからの戦いの鍵でもあるのです」
乙姫の言葉に、浦島は眉をひそめた。
「また戦うのか。俺が? あの静かな夢から戻ってまで……」
「世界が崩れつつあるのです。海の底にも、既に亀たちが帰らぬ日々が続いています。……あなたにしか開けぬ扉がある」
静かに、乙姫は言う。
「西の地より、一人の剣士がこちらへ向かっています。桃太郎――彼と出会い、共に歩む時が、ついに訪れました」
浦島は立ち上がり、玉手箱を手に取った。
かつては恐れを込めて開けた箱。今は、その中に眠る力を感じる。
彼の目が、眠りの霧から覚めたように光を取り戻していく。
「……よし、ならもう一度、地上に行こう。今度は逃げない。お前が“月の子”って言うなら、その名に恥じないように、やってみるさ」
乙姫は微笑んだ。
「……その言葉を、ずっと待っておりました」
そして、海が開いた。
水が裂け、光が差し込むその先に、桃太郎と、かぐや姫の姿があった――。