第二節 浦島太郎編:時の海に沈む約束
波の音――。
気がつくと浦島太郎は、一面の海の中に立っていた。
空も海も境界をなくし、すべてが銀色に染まっている。重力も時間もない。
ただ、遠くからゆっくりと音が届く。懐かしい、笛の音だった。
「……乙姫?」
彼が呼ぶと、水面がわずかに揺れ、白い影が現れた。
水のドレスをまとった乙姫が、微笑んでそこにいた。
「ようこそ、狭間の海へ。これは“あなたの心”が映し出す記憶の深淵です」
彼女の瞳には、悲しみと慈しみが溶け合っていた。
「浦島太郎、あなたは今、ひとつの問いに立たされています。“時間を超えても守るべきものは何か”――」
乙姫の手のひらには、あの玉手箱があった。
だが、それは以前見たものとは違っていた。まるで“まだ開けられていない未来”を閉じ込めているように見えた。
「覚えていますか? あなたは自分の意志でこの箱を受け取った。竜宮を離れ、地上に戻ることを選んだ――忘れることを、選んだのです」
「……そうか。あのとき、俺は逃げたと思っていた。でも、本当は……守りたかった。未来を」
浦島は目を伏せる。
地上に戻ったとき、何もかもが変わっていた。知る者もなく、語る者もいなかった。
だが、自分の胸の奥にだけは、確かに残っていた“音”があった。乙姫の声、竜宮の静寂、そして――手の温もり。
「“託された”だけだと思ってた。でも、違った。あれは……俺が自分で選んだんだ。誰かのために、今を生きることを」
乙姫が近づき、そっと玉手箱を差し出した。
「あなたは何も失っていない。あなたの記憶も、痛みも、選んだ時間も――すべて“今のあなた”を創っているのです」
浦島は、玉手箱を両手で受け取った。
それはもはや“過去”ではなく、“舟”だった。
時間の海を越えて、誰かの未来に繋ぐための舟。
波間に、無数の時計の針が静かに沈んでいく。
「……ありがとう、乙姫。俺はこの舟で、もう一度“今”を旅するよ」
乙姫は微笑んだ。
「あなたが選んだ道を、私は誇りに思います。さあ、未来へ進みなさい――あなたの“時”を生きて」
世界が光に満ちていく。
浦島の足元が揺らぎ、仲間たちの元へと導かれていった。




