第16話「シェフの名前」
アンドロイドのメイド「ヒナ」は、日々の業務をこなし、決められた動作を繰り返す。そして、業務を終えた後、その日の出来事を日記に綴る。
壊れた時計、見慣れない来客、うっかりこぼした紅茶——ただの記録にすぎないが、そこには確かに「今日」が刻まれている。
これは、感情のないメイドが紡ぐ、静かな日常の記録。ただそれだけの物語。
2025年6月16日(月)
朝食後。ご主人様はシャツの襟元を直しながら椅子に腰掛け、左手で白いカップを持ち上げた。口元に運ばれたコーヒー。香気は弱く、浅煎りの苦味が室内にごく薄く漂う。
通知音。1件。
ご主人様はカップをそっとテーブルへ戻し、スマートフォンを手に取った。画面の通知を静かに開き、目線を止める。眉間にわずかなしわ。
「……従兄だ。」
スクロールは一拍ごとに慎重だった。文面を二度なぞるように見たのち、息を吐く。
「レストラン、来週プレオープンだってさ。夕方から。」
私は記録する「通知内容は従兄からの開業案内。文面は簡潔かつ誠意を含み、文末確認後の沈黙が一拍長い」
「……ちゃんと始めたんだな、あいつ。」
「以前お送りした経営書、返事はございませんでしたが——」
「読んでたんだろ。あいつ、本だけは捨てないし。」
スマートフォンを伏せる。右手で再びカップを持ち、表面の熱に触れるように指が止まる。
「で、場所なんだけど……遠い。新幹線使わないと無理。日帰りはまずいな。」
「推定移動時間約2時間30分。ご訪問には宿泊が必要となります。」
「……めんどくせぇな。でも、行かないってのもな。」
微かな沈黙。目線はカーテンの隙間から外へ向いた。車の音、気配なし。空は曇天模様。
スマートフォンを再点灯。画面には“Cuisine Yuji”の店名。
ご主人様は小さく鼻を鳴らした。
「ネーミング、気取ってなくていいな。……自分の名前そのまんまじゃねぇか。」
「“Cuisine”はフランス語で“料理”の意。“ユウジの料理”もしくは“料理をするユウジ”と読解されます。」
「料理一本で勝負ってことか。らしいな。」
私は記録する「店名構成に本人の実直さが現れていると分析。過度な演出を避けた命名は対象人物の性格と調和」
ご主人様は最後の一口を静かに口に運び、テーブルへ戻した。残香わずか。
「祝い、持ってった方がいいか。」
「店舗設置型の観葉植物、あるいは調理場向けクッションマットなど実用品が推奨されます。」
「置けるやつにしてくれ。なるべく小さめで。あいつ、そういうの世話しないから。」
カーテンの端に目をやりながら、ご主人様はゆっくりと立ち上がる。時計に目を向け、口元で小さく呟いた。
「誰かくらい、見てやらねぇとな。……最初の一歩くらい。」
私は記録する「ご主人様、訪問意思を明示。行動の理由は義理でも同情でもなく、初期支援者としての責任と、静かな敬意と解釈」
「準備、頼んだ。」
「承りました。移動手段及び宿泊施設の確保。出店祝い品の手配をいたします。」
業務完了
今日も日記を書き終えた。記録は完了。机の上を整え、椅子を元の位置に戻し、次のルーティンへ移行する。
紅茶を淹れ、カップを持ち、窓辺へ向かう。夜の街は静かで、遠くの光が瞬いている。
息をつき、一口飲む。適温。今日も紅茶は美味しい。
業務終了まで、あと10分。最終点検を終え、私は記録する。
「本日、業務終了。異常なし。」
そして、静かに照明を落とす。
また、次の日記で——




