3.不安に駆られた童貞
楓之丞は、挨拶だけ済ませてさっさと自フロアへ逃げ帰ろうとした。
ところが星羅はどういう訳か楓之丞を解放しようとはせず、わざわざ傍らにそっと歩を寄せてきた。
「あのさ陽祭くん、ちょっとイイかな」
にっこりと微笑みかけてくる色気満載の美貌に、楓之丞は幾分渋い表情ながら足を止めた。
「実は今日ね、うちと設保さんの若手でご飯行こうかって話が出てるの。でね、出来たら陽祭くんにも来て欲しいなって思ってるんだけど、今夜忙しい?」
「あー、いや、別に、何も用事無いスけど……」
この時楓之丞は、由伸も来るのだろうかと警戒の念を滲ませたが、そんな楓之丞の不安を察したのか、星羅は大丈夫だとばかりに悪戯っぽく笑った。
「風岡さんは来ないから、安心して。今日明日は企画案の練り直しで忙しいから、それどころじゃないって」
「あ、そうなんスか」
そういうことならば、顔を出しても大丈夫か。
星羅曰く、総合企画部側の若手社員らは是非楓之丞と顔合わせしたいと望んでいるとのことで、星羅自身も楓之丞の参加を心待ちしている風を匂わせていた。
「俺、未成年なんで酒とか飲めませんけど……」
「あ、そんなの全然気にしなくてイイよ。まだ月曜だし、皆そこまで羽目外さないと思うから」
そんな訳で、楓之丞は星羅に誘われるまま、夜の食事会に顔を出す運びとなった。
しかし星羅という女性も随分と薄情なものだ。カレシが必死に仕事しているのを尻目に、自分は呑気に食事会に顔を出そうというのだから、結構な仕打ちであろう。
ともあれ、約束を交わした以上は顔を出さない訳にはいかない。
楓之丞はその日の業務を全て滞りなく進め、特に何事も無く定時を迎えた。
設置保守施工部の若手先輩社員らは終業時間が迫るにつれて妙にそわそわと落ち着かない素振りを見せる様になっていたが、楓之丞はささっと食事だけ済ませて、適当に切り上げる腹積もりだった。
そうして終業チャイムが鳴ると、隣席から今夜の食事会に参加する先輩社員が、何故か色めき立った様子で声をかけてきた。
「なぁ陽祭、今日の食事会って、夢咲さんも参加すんだよな?」
「あー、らしいっスね」
呑気な声で応じながら、楓之丞はそういうことかと内心で苦笑を浮かべた。
変に浮足立っていた先輩社員らは、社内でもトップクラスの美女である星羅と食事の席を共にすることが出来るのが嬉しかったのだろう。
しかし生憎、星羅にはオトコが居る。そのことを教えてやろうかとも思ったが、流石にプライベートな話なので、そこは敢えて黙っておくことにした。
ともあれ、楓之丞は食事会に参加する若手先輩社員らと一緒になって、会社近くのイタリアンレストランへと足を運んだ。
既に総合企画部側の若手五名が先に入店してテーブルに就いていたのだが、驚いたことに五人中、四人が女性だった。
勿論そのうちのひとりは星羅である。
逆に設置保守施工部側の面子四名は全員男子。これはつまり、事実上の合コンという形に近しい。
(うわ……何コレ)
とんでもないところに呼び出されてしまったと内心で戦々恐々となりながらも、楓之丞は端っこの席に腰を落ち着けた。
そんなこんなで食事会がスタートし、乾杯してから軽く自己紹介の段となった。
(こういう雰囲気、ちょっと苦手やなぁ)
今年の春に高校を卒業したばかりだが、学生時代はずっと陰キャなぼっちで通してきた楓之丞。
幼少の頃から電気に親しみ、電気が友達だったといっても過言ではない青春を送ってきた。
勿論、そのお陰で高校在学中に第一種電気工事士と第三種電気主任技術者のふたつの資格試験に合格出来た訳なのだが。
工業高校に通っていた為か、女子の在学数は非常に少なく、ほとんど男子校に近しい男女比だった。
そういう訳で、この食事会の様な男女ほぼ同数の席で歓談する経験など、全く皆無の楓之丞。正直、かなり居心地が悪かった。
(飯だけ食って、さっさと帰ろ……)
お喋りは他の先輩社員らに任せて、楓之丞はひとり大人しく、黙々と手を動かし続けた。
そうこうするうちに星羅の自己紹介に至った訳だが、彼女は海外旅行に行きたいから現在必死に英語を勉強しているなどと発言し、他の面々から注目を浴びていた。
「自慢じゃないですけど、わたし先月、TOEICで650クリア出来たんです」
はにかんだ笑みで頭を掻く星羅。その仕草だけで男性のほとんどはキュン死するだろう。それぐらい、彼女の表情は可愛らしかった。
更に星羅は、海外旅行にはひとりで行くのは寂しいし、色々と不安があるとも漏らした。
「それでね、一緒に行ってくれるひとにも、出来たら英語はそこそこ学んでて欲しいなぁなんて思ってるんですけど……ちょっと我儘過ぎるかな、なんて思ったりもするんで、悩ましいんですよね……」
この時、楓之丞は合同企画会議での由伸を思い出した。
彼は説明の際、ところどころで横文字の専門用語を並べていたのだが、その半分近くがスペルや発音を間違えていた。少なくとも、今のカレシは英語が堪能という訳でもなさそうだった。
(風岡さん、大変やろうなぁ)
星羅が海外旅行に一緒に行きたいと思っているのは間違い無く、カレシの由伸の筈だ。その由伸が英語を余り得意としていないのは、星羅にとっても頭の痛い話であろう。
そんなことを考えていると、不意に隣に座っていた設置保守施工部の若手先輩社員が、余計なひと言を口走った。
「あれ、そういえば陽祭、お前もTOEICのスコア持ってたんじゃなかったっけ?」
「え……そうなの!?」
この時の星羅の食いつきぶりは、まぁまぁ凄かった。随分と嬉しそうに、その美貌を輝かせている。
(いや、あんたカレシ居てるでしょうに……)
内心で呆れ返った楓之丞だが、しかし星羅はお構いなしに、直近のスコアは幾らだったのかと更にぐいぐい迫ってきていた。
「えっと……990です」
「わぁ……凄い! 満点じゃない!」
今にも狂喜乱舞しそうな勢いの星羅。
他の面々からも羨望と驚きのどよめきが湧き起こっていた。
(え、ちょっと待って……俺、今日無事に帰れる?)
急に不安が込み上げてきた楓之丞。
物凄く嫌な予感がしていた。