13.満足した童貞
全く何も出さないというのも社会人としてのホスピタリティ上どうなのかと考えた楓之丞は、ひとまず熱い紅茶を供して叶恵をもてなすことにした。
が、気持ちの上では今すぐにでも帰って欲しいというのが本音だった。
中学生の頃までは、互いに親友以上の存在として仲が良かったふたり。しかし高校生になってからは、急激に疎遠となった。
単にそれだけならどうということも無いのだが、叶恵にはひとつ年上のカレシが居る。
にも関わらず、こうして楓之丞を尾行して現住所のアパートにまで押しかけてくるというのは、一体どういう了見なのか。
叶恵は楓之丞より一歳年上だが、その感覚はまだ社会人には程遠いと見て良さそうだ。
ストーキングという行為が、場合によっては迷惑防止条例に抵触する可能性があるということなど、考えたこともないのだろう。
今回は相手が楓之丞だから良かったものの、これが例えば星羅に対する行為であれば、下手をすれば警察沙汰になっていたかも知れない。
そう考えると、叶恵の考え無しな行動にはぞっとする思いだった。
「大体、何で叶恵ちゃんが俺のやることにいちいちケチ付ける必要あんねんな。幼馴染みいうたかて、んなもんガキん頃の話やんか」
「えっと……そ、そうなんだけど……」
ティーカップを両手で包み込む様な格好で、視線をテーブル上に落としている叶恵。
何かいいたそうな様子ではあるものの、しかしどうにも要領を得ない。いいたいことがあれば、はっきりと口に出してしまえば良さそうなものなのだが。
「っていうかさ……もうこんなこと、二度とせんときや。えーっと、誰さんやったっけ……あぁ、そうそう、北中さんやったかいな。そのひとに睨まれんの、俺からしたらエエ迷惑やし」
楓之丞が口にした人物は、叶恵が高校に入ってから付き合い始め、そして彼女の初体験の相手でもある北中輝樹という男だった。
直接会ったことはないが、叶恵の母からその名は聞いて知っている。
叶恵の母は楓之丞を小さい頃から可愛がってくれており、叶恵が輝樹と付き合い始めたことについては、余り良い顔を見せていなかった。
その為、楓之丞の耳には輝樹の悪い面の情報しか入ってきておらず、正確な人物像はよく分からない。しかし叶恵が選んだオトコなのだから、カレシとしてはそれなりの存在なのだろう。
ところが楓之丞が輝樹の名を出した瞬間、何故か叶恵はツラそうな様子でその端正な面を僅かに歪めた。
何かあったのかも知れないが、楓之丞にしてみれば知ったことではない。
恋人同士のいさかいなどには全く興味は無いし、そもそも巻き込まれるのは真っ平御免だった。
そんな楓之丞の考えなど知ってか知らずか、叶恵は尚もその美貌を苦しげに歪めたまま、静かに項垂れた。
「黙ってても、分からへんよ。何か話したいことがあったから、わざわざ尾いてきたんとちゃうの?」
「……うん……そうだ、ね」
ここで漸く、叶恵は面を上げた。
「……輝樹と別れたい」
喉の奥から絞り出す様な声音で、弱々しく吐露した叶恵。
しかし楓之丞には、今ひとつピンと来なかった。男女間のもつれは、当人同士で解決すれば良い話だろう。なのに何故わざわざ、楓之丞に告げる必要があったのか。
「いや……好きにしたらエエやんか」
「うん、そうしたいんだけど……でも、何か、駄目なんだよね」
この時、叶恵はその美貌を泣き笑いの形に崩した。彼女は、自分ひとりではどうにもならないという旨の台詞を口にして、小さくかぶりを振った。
曰く、切り出す勇気が無い、というのである。
よくよく話を聞いてみると、ここ一年程の間は兎に角輝樹からの干渉が激しく、何をするにしてもいちいち罵倒されることが多かったらしい。
輝樹にとっての理想のカノジョ像というものがあるらしく、叶恵はその期待に応えるべく、色々と必死に頑張ってきたと語った。
だが、それももう限界に近いのだという。
本来ならば、こんな相談は誰にも出来ないと心の奥底に仕舞い込んでいた様だが、楓之丞と再会したことで、もしかしたら昔のよしみで助けてくれるかも知れないと思ったとの由。
(何それ……随分都合のエエ話やな……)
楓之丞は、単純に呆れた。
一方的にこちらとの縁を切っておきながら、いざ自分の身に問題が差し迫ると、かつての裏切りを無かったことにして助けて欲しいなどと平気でのたまう。
良い身分だ、と内心で吐き捨てた楓之丞。
しかし、目の前で涙に暮れている幼馴染みの沈んだ表情を見ていると、流石にそんな口撃を真正面から叩きつける気にはなれなかった。
「要するに、怖くてよぅいえへん、って訳かいな」
「うん……簡単にいうと、そうね」
馬鹿馬鹿しい――楓之丞は鼻で嗤いたくなった。
幼馴染みとはいえ、楓之丞は所詮は恋愛素人な童貞だから、どれ程に都合の良い話であっても簡単に乗ってくれる、とでも思っているのかも知れない。
そんな甘い考えが通用すると、本気で思っているのか。
(俺はまだ社会人一年目やけど……仕事の中で色んなひとに接してきて、筋の通る通らんはしっかり見てきた。こんな馬鹿な話、普通はほいほい乗らへんよ)
とはいえ、叶恵が望む様に、昔のよしみで助けてやりたいという気分が全く無い訳でもない。
楓之丞はずいっと顔を寄せて、叶恵の憔悴し切った美貌を真正面から睨み据えた。
「叶恵ちゃんさ……高校ん時、北中さんと一緒になって散々、俺のこと笑うてたらしいな。包茎のチンカス臭い童貞やから、一生カノジョなんて出来んやろとか何とかいうて」
その瞬間――叶恵は絶望的な色を浮かべて、涙目になっていた。
目の前の幼馴染みは間違い無く、後悔している。どうして北中輝樹などというクズ男に走ってしまったのか、今更ながら己の選択を大いに悔いている。
楓之丞としては、この表情を見ることが出来ただけで十分だった。