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12.尾けられた童貞

 定時を迎えたところで、楓之丞は早々に帰り支度を始めた。

 まだ病み上がりだということで、上司や先輩社員らが早く帰れといって気を遣ってくれたのである。

 楓之丞自身としても体力がまだ完全には回復していないことを自覚しているから、彼らの言葉に甘えようという判断を下した。


「あ、楓くん……あのさ、ちょっとお茶してかない? 久し振りに顔合わせたんだし……」


 鞄を担いで立ち上がったタイミングで、叶恵も同じ様に席を立って呼び止めてきた。

 しかし楓之丞は振り返りざまに胡乱な目を返し、やめておくと低く応じた。


「ん……そっか……じゃ、また明日ね……」


 寂しげな表情で佇む叶恵からの視線を背中に浴びながら、楓之丞は設置保守施工部のフロアを出た。

 すると今度は、社屋エントランスで星羅とばったり顔を合わせた。


「お疲れ、陽祭くん! 今日は晩御飯、何にするの?」

「いやー……何も考えてないっスけど」


 その楓之丞の応えをまるで予想していたかの如く、星羅は白いトートバッグからチラシを一枚取り出して、楓之丞の目の前で広げてみせた。

 どうやら、ふたりの住むアパート最寄り駅の近くに、新しいスペインバルの店がオープンしたらしい。


「ね、ここ行かなーい? 今オープン記念でさ、全品三割引きなんだって~」

「おー、安いっスね……でも混んでませんかね?」


 そんな会話を交わしながら、楓之丞は星羅と肩を並べて大通りに出た。

 以前ならば、会社の内外で変に絡む様なことはやめてくれと渋い顔を見せていた楓之丞だが、星羅曰く、由伸とのことはきっちり片を付けたから、もう何の心配も要らないとのことだった。

 であれば、楓之丞としても星羅を邪険に扱う理由はない。

 カレシ持ちではないと分かった以上、こんなにも綺麗な年上美人が友人として、そして隣人として親しく接してくれるのは、決して悪い気分ではなかった。

 ところが――。


「あれ? どしたの?」


 不意に誰かからの視線を感じ、立ち止まって思わず振り向いた楓之丞。

 しかし彼の目線の先には、こちらを見つめている者の姿は無い。ということは、ただの気の所為だったという訳か。


「いえ、何でもないです……」


 楓之丞は微妙な違和感を覚えつつ、静かにかぶりを振った。

 或いは、インフルエンザで高熱を発した為に、感覚がどこかおかしくなっているのかも知れない。


「あ、それでね、それでね。このムール貝とエビのパエリアがちょー美味しそうなのよね~」


 星羅は楓之丞が感じた視線には全く気付いていない様子で、尚もこれから向かおうとしているスペインバルの料理の話題を続けている。

 楓之丞も、これ以上気にしても仕方が無いと諦め、一旦は星羅が振る話題に意識を傾けることにした。


◆ ◇ ◆


 そしてそれから、およそ3時間後。

 新規開店したばかりのスペインバル料理店でたらふく飲み食いしたふたりは、相当に満足した顔つきでアパートへの帰路に就いていた。

 ところが、ここでも楓之丞はふと後方が気になって二度三度、振り向いた。


「……陽祭くん、どったの? 何だか随分、警戒してるみたいだけど」

「いや……ただの気の所為かも知れないんで……」


 今ひとつ、自分でも煮え切らないと思ってしまう曖昧な応えを返しながら、楓之丞は星羅と共にアパートへと帰り着いた。


「じゃ、おやすみ~」


 少し酔っ払った星羅の陽気な声が、隣室のドアの向こうへと消えてゆく。

 彼女が無事に室内へと辿り着いたことを目視して安堵の吐息を漏らした楓之丞も、自室に引っ込んでベッド上に大の字になって仰臥した。

 ところがそれから数分と経たないうちに、インターホンが鳴った。


(夢咲さんかな……何やろ)


 何の疑いも無く玄関口へと歩を進め、ドアを開け放った楓之丞。


「夢咲さん、何ぞまだ御用が……」


 そこまでいいかけたが、それ以上の声が出てこなかった。ドアの外に立っていたのは星羅ではなく、叶恵だったのである。

 叶恵は一瞬、楓之丞の目と合った視線を落とし、それからややあって上目遣いに瞳をこちらに向けてきた。

 対する楓之丞は、これでもかといわんばかりの渋い表情。

 何故ここに、叶恵が居るのか。もうその時点で意味が分からなかった。


「……何してんの、ここで……っていか、何でここ知ってんのよ」

「えっと、その……御免……つまり、だから、えぇっと……その……ついて、きちゃった……」


 その瞬間、楓之丞の頭の中には疑問符が幾つも並んだ。

 一体何を目的として叶恵がそんなことをしたのか、全く理解出来なかった。そもそもここにきて、彼女は何をしようとしていたのだろうか。

 叶恵の言葉を信じれば、彼女は楓之丞を尾行してきたことになる。その行動自体が既に、常軌を逸しているといわざるを得ない。

 だが、流石にこのまま放っておく訳にもいかなかった。


「……散らばってるけど、中入りぃや」

「あ、うん……ありがと」


 カレシ持ちとはいえ、一応幼馴染みである。無下に追い返すのは流石に気が引けた。

 叶恵は幾分ぎこちない所作で足を踏み入れてきたが、室内の様子をぐるりと見渡してから、漸くその表情に明るさが戻ってきた。


「へぇ……実家の楓くんの部屋と、同じ様な装いにしたんだね」

「その方が落ち着くしな……んで、何の用なん?」


 叶恵にダイニングチェアを勧め、テーブルに差し向かいの格好で座る位置を取った楓之丞。

 その問いかけに、叶恵は苦しそうな表情を浮かべた。


「……その……気になっちゃって……あたしとはお茶しないっていったのに……あのひととは、ご飯に行くみたいだったから」

「別に叶恵ちゃんが気にせなあかんことちゃうやろに」


 楓之丞は眉間に皺を寄せた。

 叶恵が何をいわんとしているのか、まるで予想もつかなかった。

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