11.再会した童貞
翌週、インフルエンザの自宅待機期間を終えて出社した楓之丞は、右の隣席に誰かが座っているという光景にふと小首を傾げた。
確か、楓之丞の右隣は空席だった筈だ。新入社員が採用されたという話も聞いていない。
では一体、この謎の人物は何者なのだろう。他所の部署からの異動者であろうか。
そんなことを思いながら自席に歩を進めてゆくと、どうやらその見慣れぬ人物は女性だということが分かってきた。
キャラメルブラウンのショートボブがよく似合う、可愛らしい顔立ちの同年代の女性――だったのだが、その顔立ちが鮮明になってきた段階で、楓之丞は思わずその場で固まってしまった。
「え、嘘やろ……叶恵ちゃん?」
「はい? えっと……って、えええええ! うっそ! マジで? マジで楓くん?」
驚き慌てて立ち上がったその女性、天海叶恵は心底仰天した様子で楓之丞の顔をまじまじと眺めてきた。
「あれ……天海さん、陽祭のこと知ってんの?」
設置保守施工部の先輩社員が、こちらも驚いた顔つきで覗き込んできた。
その問いかけに対し、楓之丞と相手の女性、叶恵は同時に頷き返した。
「えっと……その、あたしと楓くんは、幼馴染みっていうか……」
そこまでいいかけて、叶恵は伺う様な視線を楓之丞に投げかけてきた。これに対して楓之丞は既に冷静さを取り戻し、その通りだと首肯しながら自席に鞄を下ろした。
「へぇ……まさか、そんなこともあるんだねぇ」
件の先輩社員は未だ驚きの念を残しながらも、しかしこの偶然には理解を示した様子で軽い笑みを返すばかりだった。
一方、叶恵も漸く落ち着きを取り戻したらしく、幾分緊張した面持ちで再び椅子に腰を下ろした。
「でも……マジで驚いたな……楓くん、ここで働いてたんだ……高卒で即就職したって話は、おばさんから聞いてはいたけど……」
その後も叶恵は隣からちらちらと視線を投げかけてくる。
一方の楓之丞は、極力幼馴染みの美人を意識しない様に努めながら、久々の出社業務に備えて諸々の準備を整えていた。
聞けば、叶恵は現在大学二年生で、高峰精工の設置保守施工部には事務アルバイトとして先週末から通い始めているらしい。
そういえば課長が、アルバイトを雇う様な話をしていた気もするが、事務担当だからということで、楓之丞は然程気には留めていなかったのだ。
しかし、そのアルバイトがまさか幼馴染みの美女だったとは流石に予想も出来なかった。
叶恵はひとつ年上の幼馴染みで、実家も隣同士だった。
中学までほとんど同じクラスだったふたりは、幼稚園の頃から兎に角仲が良く、叶恵などは将来は絶対に楓之丞と結婚するなどとよく周囲に語っていた。
ところが、ふたりの関係性が微妙に変化したのは高校に進学してからだった。
楓之丞は電気を極める為に工業高校へと進学した。一年先に進学していた叶恵とは、違う高校だった。
そして叶恵は楓之丞が工業高校入学直後に、自身が通う普通科の高校の先輩と恋仲になり、それ以降、楓之丞とは疎遠になっていった。
後で聞いた話では、その先輩とも初体験を済ませ、成熟したオンナとして立派にひとり立ちしたということらしい。
(何や……あんだけ好き好きいうといて、結局そういうオチかいな……)
この話を聞いた時、楓之丞は軽い女性不信に陥った。
自身が真性包茎であることに加えて、叶恵からのこの仕打ちである。それ以来楓之丞は、もう絶対女性とは仲良くなることなどないだろうと腹を括っていた。
(最近は、お隣の夢咲さんが何かと俺に構ってくれてるけど、そのうち飽きるやろうし……)
そんな風に考えていた矢先に、叶恵とのまさかの再会である。
楓之丞が就職と同時に家を出てひとり暮らしを始めたのも、叶恵と距離を取りたいという意味合いもあってのことだったのだが、これでは全く意味が無かったことになる。
(何でよりによって、うちの会社やねん……)
内心で大きな溜息を漏らしながら、楓之丞は現場を離れていた間の作業感覚を取り戻す為、この日は朝から会議や客先での保全業務などに積極的に取り組んだ。
上司や先輩社員らも、久々に現場復帰した若きエースの手腕に相当な期待を寄せているらしく、何かと声をかけてくれた。
(俺と叶恵ちゃんは、もう何でもない……ただの知り合い。それだけや)
何度も自身にそういい聞かせながら午前中の業務を相当なスピードで片付けていった楓之丞。
そうして昼休みを迎える頃には、大体の業務感覚を取り戻すに至っていた。
ところが――。
「楓くんって、凄いんだね……まだ一年目なのに、会社のひとからすっごく頼りにされてるんだ」
「え? あぁ、まぁ、そうかもね」
自席でコンビニ弁当を広げている楓之丞に、お手製の弁当を広げながら興味津々の眼差しで隣席から顔を寄せてくる叶恵。
楓之丞は無関心を装いつつ、ひたすら箸を動かし続けた。
と、そこへ別の部署から見慣れた人影が軽やかな足取りで近づいてきた。星羅だった。
「やっほー、陽祭くーん。今日もお弁当……って、もしかしてお取り込み中だった?」
星羅は仏頂面でコンビニ弁当を食い始めている楓之丞と、隣席からぐいぐい迫ろうとしている叶恵の両者を、目を丸くしながらしげしげと見比べている。
これに対し楓之丞は、席を立って後方の小会議卓へと移動した。
星羅も何事かと驚いた表情を覗かせつつ、当たり前の様に同じ小会議卓に腰を下ろして手にした弁当箱を広げ始めた。
そんなふたりの姿を、叶恵は幾分の驚きを以てじっと凝視している。
「えっと……割り込んで良かったの?」
「あー、気にせんで下さい」
楓之丞は叶恵に背を向ける格好で、ひたすら箸を動かし続けた。
叶恵は、既に赤の他人だ。この期に及んで、何の気を遣う必要があるだろう。
逆に星羅は、今後も同じアパートの隣人同士としての付き合いが続いてゆく。どちらとの関係を重要視しなければならないかは、最早語るまでもない。
(大体何やねん、今更……)
尚も訴える様な視線を投げかけてくる叶恵に、楓之丞は内心で苛立ちを隠せなかった。