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1.気まずい童貞

 その週末の夜もいつもと変わらず、薄い壁の向こうから妖艶な喘ぎ声が微かに響いてくる。


(今夜もお愉しみっスねぇ。まぁ、元気なのは宜しいこって)


 高卒一年目の社会人、陽祭楓之丞(ひまつりふうのじょう)は安アパートの二階の一室でやれやれとかぶりを振りながら、第一種電気主任技術者試験の参考書に視線を落とした。

 隣に住んでいるのは同じ会社の同僚、夢咲星羅(ゆめさきせいら)

 オリーブブラウンの艶やかなロングレイヤーカットが絶妙に色っぽく、豊満な乳房と肉付きの良い腰回りが犯罪的な程にセクシーな美人である。

 たまに玄関先で顔を合わせる時は清楚なお姉さんという印象なのだが、毎週末の夜になると、激しいセックスに勤しんでいるらしい声が薄壁を貫いて漏れ聞こえてくる。

 あれ程の美人なのだからカレシが居るのは別段不思議な話ではなかったが、隣に艶っぽい声が全部ダダ漏れになっていることには全く気付いていないのだろうか。

 かといって、わざわざ教えてやるのも如何なものだろう。単なる隣人ならばそこまで気を遣う必要も無いのだろうが、部署は違えど同じ会社に勤めている以上はセクハラにもなりかねない。

 下手なことを口走ってコンプライアンス窓口に飛び込まれると、それはそれで厄介だ。


(ま……俺が我慢しときゃあエエ話やしな……)


 それでもやっぱり、あの声は余りに刺激的過ぎる。

 楓之丞もひとりのオトコである以上、股間に血流が流れ込むのはどうにも止められなかった。


(風俗にでも行って発散出来たらエエんやろうけど)


 ボクサーパンツの前部分を引っ張ってこじ開け、自身の股間から伸びている大きな物体を恨めしい顔で睨みつけた楓之丞。実は、その先端には未だ皮が被ったままなのでである。

 それも仮性ではなく、真性包茎だった。

 こんなものを女性の目の前に突きつけるのは余りにも失礼だし、衛生面でも宜しくないだろうとの考えから、楓之丞は19年の人生の中でただの一度も、セックスに挑んでやろうという気分になったことが無かった。


(皮被ってて感覚鈍いのに、この上から更にコンドームなんて付けたら、多分不感症どころの話やないやろな……)


 その予測に恐らく間違いは無いのであろうが、自分でも馬鹿馬鹿しいと思いつつ、小さな溜息を漏らして再び参考書に視線を戻した。

 一方、隣室からは相変わらず星羅のものと思しき甲高い息遣いが今もまだ聞こえ続けている。

 きっと相手の男性は普通に脱包茎を済ませているのだろうなどと馬鹿なことを考えながら、楓之丞は冷めたコーヒーをぐいっと飲み干した。

 と、その時、サイドデスクに放り出していたスマートフォンからラインの着信音が鳴り響いた。

 上司からだった。


(あ……来週の合同企画会議、俺も出てエエんや……)


 楓之丞は今年の春、高峰精工株式会社の設置保守施工部に入社した。

 この高峰精工ではガスや電気などのインフラ設備に関連する実験装置や設備を設計・製造しており、楓之丞は電気系の諸々の資格を持っていることから、現場で手を動かす職人的な業務をこなす技術社員として雇い入れられた。

 入社してまだ半年程だが、工業高校電気科で第一種電気工事士や第三種電気主任技術者の資格を取り終えており、若いながらも即戦力として採用されたという経緯がある。

 既に多くの先輩社員や上司からも、現場の若きエースとして認められ始めており、最近では単独で客先に出向いての設置や保守作業を任されることも多くなってきていた。

 そして今回。

 高峰精工の総合企画部が新たに立案した電気系実験装置の企画が持ち上がってきた。

 それらの企画案はまず総合企画部が立ち上げ、それに対して現場での製造や設置作業に携わる設置保守施工部が諸々の意見をぶつけて完成度を高めてゆくというプロセスを経た上で、設計部署で本格的な図面作成へと入ってゆく。

 その総合企画部と設置保守施工部の合同企画会議に、楓之丞も遂に呼ばれることになったのだ。

 先程、上司から届いたラインはその旨を知らせる連絡だったのである。


(これで俺もいよいよ、設計側に片足突っ込む立場かぁ……)


 ちょっとした感慨が湧いてきた。

 普通、新卒で入社した者は最低でも一年の業務実績が無ければ合同企画会議には呼ばれないらしいのだが、楓之丞の場合は第一種電気工事士に加えて、課長級の技術と知識を持つに等しい第三種電気主任技術者の資格をも既に保有している。

 この若さでの会議出席は異例中の異例だろうが、楓之丞の持つ資格とその技術、知識を鑑みれば、当然の招聘といっても良さそうであった。


(ま……あんまり張り切って、要らんことだけはいわん様にした方がエエかな)


 参考書を閉じて、木張りの天井を見上げた楓之丞。

 僅か半年ではあるが、今までの頑張りが認められたのは素直に嬉しい。

 プライベートでは年齢がそのままカノジョ居ない歴の年数になる寂しい人生を送ってきた訳だが、仕事面では着実に結果が出始めている。

 元々、真性包茎の所為で女性とは縁遠い人生だったのだから、これからは仕事と己のキャリア向上に意識を集中させても良いのではないだろうか。


(うっし、頑張ろ頑張ろ……俺の電気人生、これからがスタートや)


 この時、依然として隣室からは艶めかしい喘ぎ声が鳴り響いているのだが、もうこの時点で楓之丞は、そんな声はすっかり気にならなくなっていた。


◆ ◇ ◆


 そして週が明けて月曜日の午前中。

 楓之丞は設置保守施工部の上司や同僚達と肩を並べて、社内の会議室へと足を運んだ。

 そこで思わず、喉の奥であっと声を漏らしそうになってしまった。

 総合企画部側からの出席者の中に、エロい隣人こと星羅の姿があったのである。


(うわぁ~……めっちゃ気まずい)


 恐らく星羅の方は、セックスの時の声がダダ漏れになっていることなど、露とも気付いていないのだろう。

 しかし楓之丞は彼女の秘め事の際の声を全部聞いてしまっている為、何ともバツが悪かった。


(あかんあかん……今は仕事や。仕事に集中や)


 己の両頬を軽く叩いて気合を入れ直した楓之丞。

 それでもやっぱり、内心の気まずさはどうしても残ってしまう。恐らくだが、今日は星羅の顔を真正面から見ることは出来ないのではないだろうか。

 矢張りまだ19歳。

 色々と多感なお年頃であった。

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