私の名前
少し気まずい空気の中で、私は背中に薬を塗られていた。
メイド達もかける言葉が見つからないのか、沈黙が続く。
そんな空気を誤魔化す様に、私は淹れてもらったハーブティーを口に含んだ。
「ん…おいしい」
「緊張が解ける様に、ラベンダーのハーブティーを選んだんですよ」
たしかに、緊張した気持ちが解れる香りだ。
ホッと一息吐くと、薬を塗り終えた茶髪のメイドがようやく話しかけてくる。
「魔王様が連れてきた"人間"というだけでも、周りからの興味を引きます。その中には魔王様に反発する者もいるでしょう」
魔王だからといって、全ての魔族に慕われている訳ではないらしい。魔界にも権力争いなどがあるのだろう。
そのことに気づき、ハッとする。
「だからこそ、魔王様はあなたの身支度をしろと命じられたのです。隙のある姿では、敵対派閥にとっては恰好の餌食ですから」
「そっか…」
傷だらけの背中を見られれば、魔王はあの人間に折檻をする非道な王だと言われる可能性がある。そうなれば…私だけの問題ではなく、ガルガイン様にも迷惑がかかってしまう。
私を助けてくれたガルガイン様に、そんな迷惑はかけられない。
「大丈夫です!傷もきっと良くなりますから、今はお身体を休めてください」
不安にさせることを言ってしまったと、メイドは取り繕う様に笑みを浮かべた。
「さあ、支度も整ったので魔王様に会いに行きましょう!」
「あ…待って、あなた達の名前を知りたいの」
そう言うと、赤髪のメイドと茶髪のメイドは目を丸くした。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね」
「いけないわ、うっかりしてた」
「私の名前はマリーです」
「わたくしの名前は、クロエです」
深々とお辞儀をされて、そんなに畏まらないでと私は破顔した。
赤髪がマリー、茶髪がクロエね。
外とのつながりが無く、人の名前を覚えないといけない状況とは無縁だったから、覚えるのも一苦労だ。
「失礼します、お支度はお済みでしょうか」
コンコンというノックの後、先ほどの猫耳執事の声が聞こえる。
「ええ、どうぞ入ってください」
そう言うと部屋の扉が開かれて、執事とガルガイン様が入ってきた。
「泥まみれで痛々しい姿だったが、少しは見れるようになったな」
フン、と顎に手を置きながらガルガイン様は満足そうな顔をした。
私はお辞儀をしながら、着せてもらった淡い水色のワンピースの裾を掴む。
「こんなに上等なお洋服を着るのも、優しく身なりを整えていただいたのも初めてです…ありがとうございます」
ノット伯爵に着せられたあからさまに胸元を強調したドレスは、森を逃げていた時にボロボロになっていたので捨てることにした。
「それにしても、ガルガイン様は何故こんなお洋服を持っていたのですか?」
何気なく尋ねると、ヒヤリとした冷たい視線が私を突き刺した。
メイド達はキョロキョロと視線を彷徨わせている。
「…たまたま持っていただけだ」
ガルガイン様はそう吐き捨てて、部屋を出て行こうとする。
ーーまずいことを言ってしまった。
私は咄嗟にガルガイン様の手を掴んだ。
「すみません、聞かれたくないことでしたよね。私も素性を明らかにしていないのに、ズケズケと聞いてしまって失礼なことをしてしまいました」
この方に捨てられてしまったら、私は生きていけない。
そう思う気持ちもあったが、ガルガイン様が一瞬見せた顔があまりにも辛そうで。
私はひたすらに謝罪をした。
魔王という立場だ、私なんかよりもずっと聞かれたくないことがあるだろう。
…次に来る言葉を、目を閉じながら待ち続ける。
そうして何秒か経った後、ガルガイン様はフーッと深呼吸をして私の方に向き直した。
「すまない。大人気ないことをしてしまった」
「いいんです、私が考え無しに聞いてしまったことが悪いので」
「…今更だが、少し話をしよう。そういえば君の名前も知らないしな」
「あ…私…わたしの名前は…」
その時、急に目眩がして私はその場に倒れ込んだ。
焦るガルガイン様の声を聞きながら、私はゆっくりと意識を手放したのだった。