1話 地獄の幕開け
轟く雷鳴。
ザァザァと降りしきる雨の中、私は意識を浮上させた。
元は白かったであろう洋服は、倒れた衝撃で泥に塗れている。
自分が何故ここに居るのか、自分が何者であったかさえ分からない。
雨の寒さと記憶が無いということへの恐怖で、体がガタガタと震える。
行くあても無いので、そうしてしばらく立ち尽くしていると。
遠くの方から馬の駆ける音が聞こえてきた。
「父さん、家の前に女の子がいるよ」
「なにぃ!?薄汚い乞食だろう、サッサとつまみ出せ」
まだ声変わりの済んでいない幼い男児の声が聞こえて、直後に大声で命令を下す男の声がした。
嗚呼、私は自分が何者かも分からないまま死ぬのか。
自分のあまりにも酷い最期を悟り、涙を流した。
しかし、男児は続けて男を説得する。
「こんな夜遅くに女の子を外に放置するなんて、危ないよ!せめて一晩ここにおいてあげてもいいでしょう?」
「ふむ………。ほぅ?よく見れば白髪の女じゃないか?これは使えるな」
まるで品定めをするような、生々しい視線に気分が悪くなる。
それでも、ひと時だけでも生き残れるのならばとふらつく足取りで自ら馬車に近づいた。
どんどん視界が狭まっていく。
早く、あの子の元へ、辿り着かなければ。
「っ!この女の子を屋敷の中へ!急いで!」
馬車から飛び降りた男児が持つ暖かいショールに包まれて、私はそこで意識を手放したのだった。
目覚めると、柔らかなベッドの上だった。
豪華絢爛な部屋の中央にある、天蓋付きのベッド。恐らくとても高価なものだ。
身元も分からない私にこんな部屋を用意してくれるなんて、案外あの男は良い人間なのかもしれない。
「あぁ、目覚めたか」
ノックもなしに、男が扉を勢いよく開ける。
驚いてそちらを見ると、何か企んでいるような表情の男と目があった。
「いやぁ、無事で良かった。その醜い…ごほん。汚れてしまった体を洗うように手配しよう」
「ありがとう…ございます…」
男が胸元から取り出したベルを鳴らすと、赤髪のメイドが一目さんに駆けつける。
「その女を浴場に連れて行け」
「かしこまりました」
メイドは命令を下されると、ベッドに腰掛けたままの私の腕を引っ張る。
強い力で痛みを感じたが、素直に着いていくしかなかった。
--メイドの顔が、酷く怯えていたから。
広い屋敷内を連れられ、目的の浴場にたどり着く。
大理石で作られた立派なそれは、私なんかが使っても良いのかとためらう程だ。
赤髪のメイドは手際良く私を脱がし、汚れた服を洗濯係のメイドに渡した。
「あなた…どうしてそんなに怯えているの?」
髪を洗われながらそう質問すると、赤髪のメイドはびくりと肩を揺らし、それから誰も聞いていないかと辺りを見渡した。
「…それは、ここがヴァージル・ノット伯爵のお屋敷で、私が彼に仕えるメイドだからよ」
「伯爵…だからこんなにお屋敷が立派なのね」
「立派なんてものじゃないわ。このお屋敷は、領民に厳しく税を取り立てて作り上げたものなのよ」
なるほど。あまり信用していなかったけど、男は悪名高い人間らしい。
「あなたも運が悪かったわね。伯爵が何を考えてるか私には到底分からないけど、きっと明るい未来は無いわよ」
「そう…それでも、今生きていられることに感謝するわ。伯爵に連れられていた男の子は誰なの?」
「あの方は、ヴァージル伯爵の実の息子よ。名前はサミエル・ノット様。本当に実の息子か疑っちゃうぐらい、彼は性格が良いわ。10歳なのに屋敷の様々な異変に気付いては、私達を心配してくれる優しい方なのよ」
彼は本当に優しい人間なんだ。私なんかに手を差し伸べてくれた、まるで天使みたいな人。
「さぁ、急がないと伯爵に叱られるわ」
「ちょっと待って…あなたの名前を教えてほしいの」
「私はメアリーよ。好きに呼んでちょうだい」
…そう笑ってくれた彼女は、支度が遅いといって伯爵に鞭打ちの刑にされた。
鞭が勢いよく空気を割く音と、聞くに耐えない様な悲鳴が、私のすぐ目の前から聞こえる。
--ここは、地獄だ。
「お前が悪いんだ。お前が早く支度をしないから、可哀想なメイドはお前の代わりに罰を受けた。わかるだろう?お前が私に逆らえば、周りの者が被害を受けるんだ」
伯爵の太い指が、私の頭を掴む。
おぞましくて吐き気がする。
気持ち悪い、触らないで。そう言ってこの手を跳ね除ければ、またメアリーが罰を受けることになるだろう。
私が何を言われたら従うのか、この男は理解している。
「分かったら、大人しく私の言うことを聞くんだな」
「はい…わかりました、伯爵様」
こうして、私の地獄の様な日々は幕を開けた。