13日目
「純文学というジャンルはどうだろう」
「冒涜では?」
そもそも純文学の定義とはとかその辺りから語っていかなければならないのでありましょうか?外連味のない物語とか、現実に沿ったそれであるとか、幻想によらないものであるとか、人の精神やら思想やらのみを扱った題材であるとか、まあそのようなものなのでしょうか?
「意外と曖昧なというか、要素を削いだ分類じゃないか?」
「余計なものがないという意味での、純なのではないでしょうか?」
ただ、詩とかは純文学に入らないような印象はございますね。あれはあれで一つのジャンルであろうかなと。いいや、定型詩はその形状に引っ張られる感じがしますが、そうでない自由詩は純文学に入るのではないでしょうか?
ただ、詩的な文章は、それは詩そのものではないということに他ならないわけでありまして、この辺り曖昧模糊としているのであろうかなとは、予想できるわけですね。
「感情をそのまま文章に乗せれば純文学では?」
「なるほど、それも正しい一面な気がしますね」
剥き出しの感情を見せることが芸術であるかどうかというならば、それによって読者が心を動かされたならば、そうであるのではなかろうかな、とも言えそうでありまして。余計な装飾を抜きにして、直接心を揺らすことができるかどうかが、純文学がそうたり得る要素なのでありましょうか?
「つまり感情を揺るがせなければ純文学ではない?」
「無味乾燥な物語はそもそも物語ではありませんのでは?」
もっともどのようなものが読む人の心を震わせるかどうかは、その方の環境やら状況やら、背景となる文化の違いで変わってくるわけでございまして、ただ単なる数字の羅列であるように見えても、前提が違っているならば、大きく心震わせるものにもなる、のでありましょうね。
「円周率を延々と記述した本にも需要があるくらいだからなぁ」
「ある意味それは純文学ではないでしょうかね?」
現代芸術に近い表現ではなかろうかなとか、意味がないと申しますか、意味は受け手に全て委ねてしまうような表現方法なのであろうかなとかは予想できるわけでありますが、門戸は狭そうではあります。ただ、刺さる人には刺さるものがあるというわけでありましょうか。多様化と言えるのかもしれません。
「多様化って言ってればそれで納得するような風潮はあるなぁ」
「少なくてもそれを否定すると負のイメージがつきますね」
多様化を認めない人を認めないという矛盾は普通に出てくる文言でありますね。そもそも自分が何をどうとらえるのか、何に感情を震わせるのかを、客観的に決めることは無理そうでありますし、あくまでも受動的なものであるのでしょうね、積極的にそれらの作品を求めることができるけれども、それがどう作用するかは、運的な要素が多分に絡むわけでございまして。
「純文学運ゲー?」
「むしろそうではないものは少ないかと」
多少なりとも運が絡まない要素はないかなとは思いますね。縁と言い換えてもそれほど間違ってはいないです。大切にしましょうね。




