第1章 向こう側からの来訪者 5
七都は、ふらつきながら、歩道を歩いた。
夏の日差しが体にまとわりつく。
向こう側の世界の太陽よりは、はるかにマシとはいえ、やはり暑い。
お腹がすいていると、その暑さがさらに迫力を増して突き刺さってくる。
(帽子……。それか、果林さんの日傘を借りればよかったかな……)
玄関には、果林さんの日傘が置かれてあった。
白いレースの素敵な日傘だ。
もう一本、彼女は折りたたみの日傘を持っていたのだが、それはなくなっていた。
折りたたみのほうを持って出て行ったのだろう。
レンガ色をした歩道の表面に、夏の太陽の光が分散してきらきらと輝いている。
見つめていると、その輝きは繋がって星になり、その星は、さらに大きくなっていく。
七都は首を振った。
いけない。早くコンビニに行って、食べ物を買わなきゃ……。
買ってから帰ってくるまでの間に倒れそう……。
歩道の脇に子供がひとり、立っている。
外国人の子供だった。
七都が住んでいるこの地域は昔からの港町なので、外国人の子供がいても珍しいことではない。
小学校からクラスに何人か外国人の子供が混じっていたし、今の高校にだって、当たり前のようにいるのだ。しかも彼らは日本語がペラペラで、漢字や格言なども七都よりたくさん知っていたりする。お好み焼きも作れるし、梅干しも山葵も平気なのだ。
道端に立っていたその子供も、完璧な日本語で七都に話しかけてきた。
「日射病? だいじょうぶ?」
透明な夏の空のような青い目が、心配そうに下から七都を覗き込む。
肩くらいまでに切り揃えた金の髪に、クリーム色のワンピースを着た女の子だった。
どこかで見たような顔だとふと思ったが、そういうところまで意識を広げる余裕は、七都にはなかった。
「だいじょうぶ。ありがとう……」
七都は、無理やり微笑む。
「気をつけてね……」
少女が手を振った。
(あんな小さな子に心配されるなんて……)
七都はへこんだが、そんな感情も、空腹の前では木っ端微塵に砕け散ってしまう。
(あの子、日射病って言ったっけ? 今時、日射病って言い方……)
ちらりと浮かんだ疑問のようなものも、太陽の光の中にたちまち溶けていってしまった。
コンビニまでは10分もかからない距離なのだが、空きっ腹を抱えた七都にとっては、三十分以上たっぷり時間が費やされたような気がした。
ガラス扉に体重をかけて開け、コンビニの中にやっと滑り込む。
コンビニに来るのは、久し振りだった。
果林さんがコンビニを嫌っているので、コンビニに入るのは罪悪感が伴う。たまに友人の付き合いで入るくらいだ。
ひんやりとした空気に包まれ、気分の悪さは少しだけやわらいだ。
けれども、気を抜くと目の前の景色が回り始める。
店の中の雑多な色彩がぐるぐると混じり合って、灰色一色になりそうだった。
七都は、向日葵と同じ色をした鮮やかなカゴを取った。何も入っていないのに、既に重い。
足を踏みしめ、惣菜コーナーをめざす。
七都は、目に付いた商品を片っ端からカゴに投げ込んだ。
焼きうどん、素麺、トンカツ弁当、サラダ。
鶏のからあげにフライドポテト、果物数種類。
サンドイッチをばさばさと落とすようにカゴに入れ、菓子パンも手当たり次第に放り込んだ。
デザートも、迷わず放り込む。
ヨーグルト、プリン、ロールケーキ、バウムクーヘン。
ドラ焼きにみたらし団子、あんみつ。
いつもは友人の付き合いで、デザートはじっくり眺めて色やデザインも楽しむのだが、そんな余裕さえもない。
あっという間にカゴがいっぱいになった。
七都は一つ目のカゴを床に置き、二つ目のカゴを取る。
水とお茶、スポーツ飲料のペットボトルを入れ、それからアイスクリームを、これも銘柄を見ずに、ただ事務的にカゴに投げ込む。
こんなにたくさん買って、どうやって持って帰るのか。
そんな単純なことさえ考えつかぬくらいに、頭がぼんやりしていた。
正直なところ、持って帰らずに、今ここで封を破って豪快に食したいところだ。
そんなことをチラッと思った瞬間、果林さんの「ななちゃん!」と叫ぶ怒った顔が思い浮かび、七都は苦笑する。
(果林さんに、コンビニでいっぱい買い物をした話をしたら、絶対怒られる……。ううん、もしかしたら、情けなくて、帰ってきてくれるかもしれない……)
七都がぼんやりと考えていると――。
「食後に、これも必要なのではないですか?」
誰かの声が、斜め上あたりから降ってきた。
同時に七都の前に、コーヒーのセットが差し出された。
紙コップとコーヒースティック、ミルク、シュガーがセットになったものだ。
七都は飲んだことはなかったが、美術部の部室で先輩がいつも持参して飲んでいるものだった。
先輩がおいしそうに飲んでいるので、興味を持っていた。
「あ、そうだ。お父さんいないから、コーヒー飲めないし……」
コーヒーメーカーは父しか使い方を知らないので、父がいないときには、それでコーヒーを飲むことはできなかった。果林さんは紅茶党なので、インスタントのコーヒーは、七都の家には存在しない。
七都は、しばらくそれを見つめた。
インスタントとはいえ、やはりカトゥースは恋しかった。
飲みたい。もちろんだ。
食事が終わったあと、ゆっくりと。
「ありがとう……。え?」
何も考えず、何げなく顔を上げた七都は、はっとする。
そこで微笑んでいた人物を七都は知っていた。
父の会社にお弁当を届けに行ったとき、エレベーターの中で会った人物。
長い黒髪に鋭い眼差し。去り際に、七都に「お手やわらかに」と言い残した人物だ。
「あなたは……!」
その人物は、エレベーターの中でやったように、七都に挨拶をした。
膝を少し折り、手を奇妙な風に折った挨拶。
それは、キディアスがエルフルドや七都に対して行った仕草だった。
魔神族の男性から、身分の高い女性への挨拶だ。
「見張り人さん……?」
七都が見上げると、その青年は頷いた。
この前と同じような、垢抜けたストライプ柄のシャツにブルーのネクタイを締め、黒のスラックスをはいていた。
おしゃれなデザイン会社の社員さんといった出で立ちだ。
やはりこの前と同じ感じで、長い髪をうしろで縛っている。
「お帰りなさい。帰ってすぐにこちらへ? それは、お腹が空いておられるでしょう」
「見張り人さん! あなたたちを待ってたんだよ!!!」
空腹のせいでコントロールがきかなくなった声が、喉から飛び出す。
コンビニの店員と客が、七都とその青年に注目した。
いや、もう既に七都は、そのスケールの大きい買い物っぷりで注目されていたのだが。
「扉を通って、向こうの住人が来ちゃったの! で、今うちにいるの! 魔神狩人なの!!」
「承知してますよ。ご安心を」
若者が、冷静に言った。
「あ、そうだよね。当然だよね。見張ってるんだもんね」
「魔神狩人というのは、知りませんでしたがね。とりあえず、お勘定を済ませましょうか、姫君。それか、もっと買われます?」
「いえ、たぶん、これで充分……」
言った後、七都はカゴを見て呆然とする。
床に置いたカゴは、いつのまにか4個になっていた。
溢れそうになっていたカゴを見かねた店員が、新しくカゴを追加して、分けてくれていたのだ。
「あ。ちょっと買いすぎかな」
「家までお持ちしますよ」
見張り人の魔神族青年が、にっこりと笑う。
「え。でも……」
七都は、ためらった。
けれども、すぐに思い直す。
そうだ。この人には、どうせ家まで来てもらわなければならないのだ。
ユードを連れて帰ってもらわなければならない。
持ってくれるなら、渡りに船ってやつだ。
何にせよ、どうしてもこのカゴ四つ分、持って帰らなければならないのだから。
この空きっ腹状態で、一人で無事に持って帰れるわけもない。
七都は、遠慮なく彼に甘えることにした。
「ありがとうございます! 助かります!!」
よかった。やっぱりいい人じゃない。
エレベーターで会ったときは、ちょっと怖かったんだけど。
だって、魔神族なんだもの。魔王さまたちが各異世界に配置した、見張り人さんなんだもの。
優秀なエリートに決まってるよね。
七都は、心の底から安堵する。
レジで勘定を済ませた七都と見張り人の若者は、コンビニを出た。
相変わらずの夏の日差しが襲い掛かってくる。
「だいじょうぶですか? こちらの陽射しは向こうよりマシとはいえ、おつらいでしょう?」
彼が七都を気遣ってくれる。
「うん。ありがとう。ちょっと暑いけど、平気だよ。私、向こうでも太陽には平気だったしね。あなたはダメなんだよね」
若者は、少し寂しげに微笑んだ。
彼は、向こうでは太陽に当たると溶けてしまう。普通の魔神族と同じように。
確か、そう言っていた。
同じように魔神族の血を引いていても、その特徴の現れ方が違うのだ。
ナイジェルも然り、そして、アーデリーズも然り。
「ところで、あのう……私の正体、ご存知なんですよね?」
七都は、彼に訊いてみた。
見張り人たちは、七都のことをどれだけ知っているのだろう。
七都のことを『姫君』と呼ぶからには、多少の知識はあるのかもしれない。
「はい。風の魔王リュシフィンさまのお身内ですよね」
彼が頷く。
「それだけ? 知ってるのは」
「はい。他に何か?」
見張り人の青年が首をかしげる。
「い、いえ。それだけで結構」
それ以上、知らせることもないか。風の都は閉鎖的なんだし。
七都は思う。
「もしや次のリュシフィンさまは、七都さま……?」
彼が言う。
七都は、はっと顔を上げた。
さすがエリート、察しがいいというか。
「やはり、そうなのですか?」
若者は、一歩下がった。
そして、再びこの世界では奇妙に見える挨拶をする。
「あ、やめてくださいね、この世界でそういうことするのは。絶対、違和感あるから。社会人の男性が女子高生にそんなことしたら、おかしな人だって思われますよ」
「そうですね。つい……」
若者は、挨拶をやめて微笑んだ。
「しかし、そうなのでしたら、我々も対応を改めねばなりません」
「VIP待遇にでもなるの?」
「まあ、そういうことですね。今まで以上に気をつけてさしあげないと。まさか、魔王さまになられる方がこの世界に来られるなんて……」
彼が真面目な表情をして言った。
(あ、じゃあ、この人は、お母さんがリュシフィンだったってことまでは知らないんだ……)
七都は、彼の端正な顔を見上げる。
きっと、知ったら度肝抜くよね。
お母さんとお茶したかもしれないんだし。
でも、その頃、この人はまだ子供だったかな。
「いいよ、今までと同じで。息が詰まっちゃう。それに私、認めたわけじゃないんだ。私が次のリュシフィンになるってこと」
「それは、風の王家内で話し合われることですからね。あなたがリュシフィンさまの後継者であることは間違いないのでしょうから、我々は我々の役目を果たすまでです」
「リュシフィンの後継者……か」
七都は、憂鬱になる。
空きっ腹の上にそれが加わって、さらに気分が悪化する。
(そうだ。お母さん、ストーフィの中にいて話が出来る状態なんだから、お母さんに相談すればいいだよね。っていうか、お母さんにルーアンを説得してもらえばいいんじゃない。向こうでもストーフィの中に入ってもらって。そうしよう……)
だってお母さん、この十五年間、私に何もしてくれなかったんだもん。それくらいやってくれてもいいよね。
安易だと思いながら、ぼやけた頭で七都は考える。
七都の家が近づいてくる。
真っ白い外壁が、夏の太陽のせいで、さらに白く見える。
ガラスが、氷の宮殿のように重なっている。
七都にとっても、自慢の家だ。
異世界の魔の領域にある風の城をところどころ模した、アールデコ調の素敵な家――。
「あなたもこのコーヒー飲む? インスタントだけど」
七都は、彼に訊ねた。
「よろしいのですか?」
彼が、嬉しそうに訊ねた。
「もちろん。そういえば、ユードはコーヒー飲むかなあ」
果林さんが育てているハーブの横を通り、二人は玄関の扉を開けて中に入る。
玄関も廊下も静かだった。
ガラスを通して、夏の白い光が降り注いでいるだけだ。
けれども、この中には異世界からの訪問者がいる。
正確には、紛れ込んできた魔神狩人が一名、生霊のついた機械猫が一体、そして、以前からこの家にいる化け猫一匹だ。
「ただいまー。お客さん連れてきたよ。……あれ?」
廊下からリビングに通じるガラス扉を開けた七都は、そのまま立ち止まる。
ソファに座っていたはずのユードの姿は消えていた。