第4章 三人の公爵 19
額に押し当てられる、ひんやりした、やわらかい唇の感覚。それは、ナイジェルに初めて会ったとき、彼が七都にお別れのキスをくれたのと同じ感覚だった。
けれども、少女の姿を取っているサーライエルの口づけは、ナイジェルのものよりも小さくて、もっとやわらかかった。
そして、どことなくぎこちなさがあったナイジェルよりも、はるかに場慣れしているような上手なキスだ。
額とはいえ、その甘くとろけるような感触に、七都は思わず目を閉じる。
外見は、こまっしゃくれた少女とはいえ、サラは魔王。火の魔王サーライエルからの口づけだ。
それはとても光栄なことだったが、やはり緊張するものでもあった。七都は、思わず体を硬くする。
「いろいろ楽しかったお礼よ、ナナト。この世界の乗り物にも乗れたし、お散歩出来たし、素敵なお店にも連れて行ってもらったし、けーきとやらも味見できたわ。本当に楽しかった」
キスを終えたサラが言った。
「忘れ物って、これだったんですか?」
「そういうこと」
サラは頷いたが、すぐにぺろりと舌を出す。
「ま、お礼はお礼なんだけど、それよりも、つまり、私もあなたに印を付けたくなったのね」
「印?」
「ほら」
サラは、小さな手で七都の前髪をかき上げた。
「あなたの額には、リシュフィンとシルヴェリスとエルフルドとジエルフォートの口づけの印がある。だから、私も付けたくて。ね、これで魔王の印が5つになったわ」
「あ……」
七都は、自分の額にそっと触れる。もちろん、こちらの世界では見ることは出来ないが、そこには5つ目の魔王の印が刻まれたらしい。
「言っとくけど、別に他の魔王たちに流されたわけじゃないよ。私が付けたかったから、そうしたまで。あなたは私のお気に入りだもの。私にとって大切な存在。そういう意味だからね」
「ありがとうございます」
七都は身をかがめ、キディアス仕込みのお辞儀を丁寧に行う。
父と果林さんが、ぽかんとして突っ立ったまま、その光景を見守った。
女子高生が幼稚園児に対して、映画のシーンに出てくるような優雅な挨拶をしている。確かに奇妙に見えるに違いない。
「よかったですね、ナナト。とても名誉なことですよ。あなたの額には、赤い銀色の花びらが1つ増えました。あと闇の魔王ハーセルさまと時の魔王アストュールさまにいただけたら、全魔王さまの分が揃いますね」
ルーアンが言う。
「七人全部集めてませんから!」
七都は、嬉しそうなルーアンを睨んだ。
「サーライエルさま。ユードの額にある印は、あなたのものなんですよね?今、赤い銀色ってルーアンは言ったけど、私には彼の印は、ただの銀色に見えました」
「そう。彼が子供の頃、私が付けたの。彼も私の大切な存在だったから。まさか将来、魔神狩人になるなんて思わなかったけどね。昼間外で見たら、魔王の口づけは全て銀色に見えるわよ。室内や夜は、それなりに色が付いてるけどね。きっと太陽のせいで色が抜けるんだと思うわ」
サラが答えた。
「あなたが人間の血を引いておられるなら、じゃあ、やっぱりユードとも、そちらで血が繋がってるってことなんですか? ユードは魔神族の血は入ってないって言ってました」
「そういうことね。彼と私の間に、誰か共通の人間の血族がいるってこと」
サラは、一瞬遠い場所を見つめるような目をした。それから、つけ加える。
「でも、幸運なことに、彼とは支障があるくらい近い関係じゃないわ」
何に対する支障なのか。戦うためか、愛するためなのか。
もしかすると、その両方かもしれない。七都は思う。
人間と魔神族との恋は、悲しいもので終わる。それが、魔王と魔神狩人なら、なおさらだ。
サーライエルとユードは、そんな結末に向かっているのだろうか。お互い了解済みで、破滅的な結末に。
「さて。忘れ物も渡したし、私は帰るね。ケーキありがとう。とてもおいしかった」
サラが果林さんに微笑みかける。
果林さんは、戸惑ったように会釈した。
「では、私もおいとま致しましょう。留守番の役目も終わりましたし、もう遅いですしね。あなた方人間は、きちんと睡眠を取らなければなりません」
ルーアンも立ち上がる。
「そうですね。ちょっとこれからミニ引っ越しをしなきゃならないですし。留守番、本当にありがとうございました。あまりお構いできなくて残念です。よろしければ、またおいでください」
央人が彼に言う。
「ミニ引っ越しとは?」
ルーアンが、眉毛を上げた。
「何でもないよ。そうだ、ルーアン、このストーフィを一緒に連れて帰ってく……」
七都は、ずっとルーアンに言おうと思っていた言葉を途中で飲み込んだ。
そうだ。もしかしたら、もうその必要はないのではないだろうか。ストーフィ=母を連れ帰ってもらわなければならない、その必要は。
果林さんは父と家庭内別居をしてしまうのだ。二人は、決定的ということではないかもしれないが、やはり破局したということになる。
そうなると、ストーフィ=母も、果林さんに手を出すことはないだろう。
父の妻としての果林さんを守るために、七都がストーフィ=母の行動を制御し、文句をつける理由も、もうないのでは……。
「おや、この機械猫を連れて帰ってよろしいのですか? 気に入っておられたのでは?」
ルーアンが訊ねた。
ストーフィ=母が、七都をじっと見上げる。
その丸い目には、何の表情もなく、何色の光も灯ってはいない。七都は、そのことが余計に悲しげに見えた。
「……やっぱり、いい。このロボット猫は、この世界に置いとくよ」
七都が言うと、ストーフィの目の奥に、薄青い光がぱっと灯った。
<ありがとう、ナナト!>
ストーフィからそんな声が聞こえそうな気がして、七都はひやひやする。
「じゃあ、わたし、扉のすぐ外まで二人を送ってくね。ルーアンとちょっとお話したいこともあるし。サーライエルさまも、この扉から帰られたらいかがですか? そうだ、ついでに、風の城経由でお帰りになったらどうでしょう。ルーアン、サーライエルさまをゼフィーアたちの家まで連れて行ってあげるわけにいかないかな? 同じ魔の領域だし。あの家の地下の扉に案内してあげて、そこを通って火の都まで帰ってもらえば……」
ルーアンは何か言いたそうな雰囲気だったが、七都に向かって頭を下げる。
「あなたのご命令とあれば」
けれども、サラは七都に言った。
「風の都経由で帰るのは遠慮しておくわ。今、目の前にあるから、この扉は使わせてもらうけどね。私は、好き勝手に帰るから。魔王の玉座が空っぽの今の風の都に、他の魔王が非公式にたった一人で入るのはまずいでしょ。特に、血のつながりが深い火の魔王サーライエルがね。ねえ、クラウデルファ公爵」
「恐れ入ります」
ルーアンが安堵したように、深々と頭を下げる。
サーライエルさま、ちゃんとわかっておられるんだ。今の風の都に他の魔王が入ることは遠慮しなければならぬことを。
それはこの前、ナイジェルが風の都に来たときに、ルーアンにきつく言われたことでもある。
もちろんサーライエルは、風の都を乗っ取るなどということはしないであろうが、ルーアンは風の都の番人。彼にしてみれば、風の都を守るために神経質になるのはもっともなことだ。
だって、そういう申し出をするのは当然じゃない。近所に魔の領域への通路があるんだもの。
サーライエルさま、私にキスを下さったんだし。この流れで、別の通路から勝手に帰ってくださいなんて言えないよね。
七都は一人でいらついて、口を尖らせる。
何だかナイジェルは魔王として常識がないと、間接的に言われているような気がした。




