第1章 向こう側からの来訪者 4
かぷっ……。
ユードの手に、何か銀色のものが覆いかぶさった。
ストーフィが位置を変え、ユードのほうに伸び上がっている。
ユードの手の甲にストーフィが噛み付いていた。
もちろんストーフィの口には歯はなく、口のあたりの丸い空洞がユードの手の甲に乗っかっただけだったのだが、ユードが七都の手を離すには充分な衝撃だった。
ユードは、ぶるんぶるんと手を何度か振り、噛み付かれた自分の手を確認する。
彼の手の甲には、何の跡形もなかった。
それでも、驚きを隠せない様子でユードは叫ぶ。
「その猫人形、生きているのか!?」
「生きてるわけないでしょ。ただの機械だよ」
猫人形の中身が七都の母であることは、もちろん口が裂けても言ってはならないことだ。
もっとも、たとえ言ったとしても、そんな突拍子もない話をユードが信じるかどうかはわからないが。
「とにかく、ここでは私は人間の女の子なんだからね。私と戦う気がないのなら、そういう扱いをしてほしいな」
七都は、安堵しながらも、顔をしかめてユードを見据える。
よかった。お母さんに感謝だ。
七都が滑らかな銀色の頭を撫でると、ストーフィ=母は、すりすりと七都の手に頬を寄せる。
「そうだな。そうするとしよう」
ユードは再び、ソファにゆったりと腰を下ろした。
その時、カチャリと軽い金属音がして、リビングと廊下の間にあるガラスの扉が、細く開く。
扉の隙間から、ナチグロ=ロビンの真っ黒で艶やかな体が現れた。
自分で扉を開けた黒猫は、隙間から、するりと入ってくる。
「ナチグロ! どこに行ってたの!」
七都が強めの口調で訊ねると、ナチグロ=ロビンはめんどうくさそうに、じろっと七都を見上げた。
<トイレだよ>と、その金色の目は告げていた。
「もおお。あっち側から魔神狩人が来てしまったんだから、もうちょっと危機感持って、ちゃんと見張っててよ!」
七都が言うと、ナチグロ=ロビンは、さらにめんどうくさそうに七都をちろんと見た。
<たとえ魔神狩人だろうと、ここでは何も出来ないし、出来る対象もないし、どこにも行けやしないさ>と、その顔は言っているようだった。
「なに、その猫は魔神族なのか?」
ユードが、鋭い灰色の目を今部屋に入ってきた黒猫に注ぐ。
黒猫は一人掛けのソファに飛び乗り、優雅で丁寧なグルーミングを始めたところだった。
「猫に化けているくらいだから、グリアモスか?」
黒猫のナチグロ=ロビンが、きらりと光る金色のシャープな目でユードを一瞥した。
「ここでは、ただの猫だからね。手を出さないでよ」
七都はユードに釘を差しておく。
「約束して、魔神狩人のユード。その剣を抜かない。この世界にいる人間にも動物にも、決して危害は加えない。元の世界に帰るまで、おとなしくしておく」
「まあ、暴れる理由もないからな。未知の場所では、じっと動かずに周囲を観察しておくべきだろう」
仁王立ちしている七都をのんびりと見上げながら、ユードが言った。
「さすが、わかってるじゃない。もし、この世界の人たちに見つかったら、あなたはどこかに閉じ込められて、研究材料にされて、死んじゃっても標本にされて、もう二度と元のところには帰れなくなるからね!」
「研究材料は、ごめんこうむりたいな。ヒョウホンって何だ?」
「知らなくてもよろしい。何でもいいから、おとなしくしててよね。あなたがどこにも姿を現さなかったら、この世界の誰もあなたをどうこうしようなんてしないから」
七都の胃が、のたうつように動く。
空腹。凄まじい感覚が襲ってくる。目が回るくらいだ。
「わたし、何か食べなくちゃ。この魔神狩人に食料を食べられてしまったから、これからコンビニに買いに行ってくる。自分で料理を作るより、やっぱりそのほうが早いし、確実だし。近くだから、すぐに戻るよ」
七都は、ストーフィ=母を下ろして、ユードの向かいのソファに座らせた。
「お母さん、ここで彼を見張ってて」
七都は、ストーフィの耳元でささやく。
「いいわよ。気をつけて行ってらっしゃい」
ストーフィ=母が言った。
「お母さんも気をつけてよね。彼、結構侮れないから」
それから七都は、一人掛けのソファを占領して相変わらずグルーミングに余念がないナチグロ=ロビンに声をかけた。
「ナチグロ、ストーフィとユードをよろしくね」
<魔神狩人はともかく、何でその機械猫を?>と言いたげに、ナチグロ=ロビンが不満そうな目を七都に向ける。
七都は、つかつかとナチグロ=ロビンのそばに移動した。
そして彼の耳をぐいっとひっぱって、そのやわらかい耳の中に囁き声を注入する。
「あのね、侍従長。あのストーフィの中身は、お母さんなんだからね!」
ナチグロ=ロビンはグルーミングを中止し、大きく目を見開いた。毛が逆立ち、尻尾も三倍以上にふくれあがって、ぼわぼわになっている。
「機会があったらお話ししてみるといいよ。でも、あなたは丑三つ時でないと話できないんだよね。残念だなあ」
七都は、急いで階段を駆け上がり、自分の部屋から鞄を持って、再びリビングに戻った。
鞄の中から携帯電話と財布を取り出し、鞄を椅子の上に無造作に置く。
「じゃ、行ってくるからね!」
七都はナチグロ=ロビンとストーフィ=母に向かってにっこりと笑いかけ、その後、顔をしかめてユードを軽く睨んだ。
それから、廊下への扉を開ける。
久し振りに外に出る。普通に当たり前の太陽が輝き、懐かしい景色が溢れる、自分の世界に。
そのことが嬉しくて、七都の胸は高鳴った。
不思議だ。単に外に出るだけなのに。近所のコンビニに買い物に行くだけなのに。
こんなにも楽しい。日常の何げない行動が、とても貴重で幸せなことのように思える。
玄関のドアを開けると、真夏の蒸し暑い空気が七都を包んだ。
けれども、向こうの世界よりは、遥かにましだ。
この空気も暑さも、七都が生まれた頃から知っているもの。馴染んでいるものなのだ。
果林さんの育てたハーブが青々と茂り、その何種類ものミックスされた香りが、あたりに漂う。
七都はしばらくその景色を眺め、振り返って素早くドアの鍵を閉めた。
七都が出て行くと、リビングは、静まり返った。
ストーフィはソファに座らされたままのポーズで微動だにせず、そのストーフィをしばらく注意深く眺めていたナチグロ=ロビンも、ストーフィが動かないのにあきらめたのか飽きたのか、再びグルーミングを開始する。
ナチグロ=ロビンが毛を舐める微かな音が、リビングでかろうじて聞こえる唯一の音となった。
「暇だな……」
ストーフィとナチグロ=ロビンをしばらく交互に観察し、それから、ぐるりとリビングを見回した後、ユードが呟いた。
「しかし、せっかく別の世界に来たのだからな。外の様子を少しだけなら、見て帰っても構わないだろう?」
ユードは、立ち上がる。
明るいリビングの真ん中に、背の高い黒い影が立体的に置かれたようだった。
「研究材料やらヒョウホンやらにはなりたくないが、立ち回りには自信があるのでね」
彼はちらっとナチグロ=ロビンを見たが、ナチグロはただひたすら毛繕いを続けていた。
ユードは、先程ナチグロ=ロビンが入ってきて七都が出て行ったガラス扉の前に立つ。
ストーフィが、いきなりソファから床へと飛び降りた。
ストーフィはキッチンのテーブルの下まで移動し、椅子に乗せてあった七都の鞄の取っ手に手を伸ばした。そして、鞄を引きずり下ろす。
鞄が派手な音をたてて床に落ちた。
ユードが眉をしかめて観察する中、ストーフィは、鞄に手を突っ込んで、がさごそと中を探った。
四角い灰色の平たいものを取り出すと、ストーフィはそれを口のくぼみにあてがう。
角が口につっかえたが、ストーフィは、無理やりそれを両手で押し込んで飲み下した。
すぐに口の丸い穴は消え、そこは元通りの、のっぺりした金属の側面に戻ってしまう。
ストーフィは、ちょこちょことリビングの床を走り、リビングから出て行こうとしているユードのマントの裾をつかんで、くいくいと引っ張った。
ユードはさすがに驚いたようだったが、すぐに冷静にストーフィを見下ろした。
「一緒に連れて行けってことか?」
ユードが訊ねると、ストーフィは、こくんと頷く。
しばらく考えていたユードは、やがてストーフィに手を差し出した。
「よし、来い」
ユードはストーフィの腕をつかみ、そのまま手にぶらさげて、リビングのガラス扉を開けた。
扉が閉まるのを黙って眺めていたナチグロ=ロビンは、大きな欠伸をし、体を伸ばした。
それから向きを変え、再びソファに丸くなって寝そべる。
金色の透明な目は閉じられ、ナチグロ=ロビンは黒い餅毛玉になってしまう。
リビングは、再び静かになった。
かすかに動くものはといえば、ナチグロ=ロビンの呼吸のたびに小さく上下する、やわらかい毛で覆われた黒い背中だけだった。