第4章 三人の公爵 17
「べ、別に果林さんに隠れてっていうわけじゃないよ! たまたまだよ。気に障ったのなら、ごめんなさい」
「ううん、二人は血を分け合った親子なんだもの。親子だけの話もあるわよね。当たり前のことだわ。それに、もう私には関係のないことになるし」
「関係ないなんて言わないでよ。私は、果林さんとも親子だと思ってるよ!」
七都は、たまらなくなって叫ぶ。
「ありがとう、ナナちゃん。あなたの今の言葉は本心からのことだと思うわ。でも、仕方ないの。もう決めちゃったんだから」
果林さんはシートにきちん座り直し、頭を真っすぐ上げた。
「……ということで、巷で流行りの『家庭内別居』を私たち夫婦もすることにします。それから、これは央人さんにも相談して許可をもらってたことだけど、私、秋になったら製菓学校に行く予定です。学費は、私の結婚前の貯金で賄います。あと。こちらは私が自分で勝手に決めたことだけど、それまでは、週に二日か三日、パートで仕事に出ます。パート先は、友人が経営してるカフェです」
果林さんは、何か紙に書いている文章を読み上げるように、よどみなく事務的に言った。
「香子さんのカフェ? 学校に行くまで、あそこで働くの?」
「そう。すっかり頼りにされちゃってるの。新しいケーキを開発してって」
果林さんは七都のほうを振り返り、にっこりと笑って頷いた。それから、さらに続ける。
「ナナちゃんは、これから受験で大変だから、ナナちゃんが勉強に専念できるような環境にはします。製菓学校へ行くのも1年だけだし、夕方には帰ってくるし、そんなに影響はないと思うの。それは心配しないで。それからね。私は、ナナちゃんが大学を卒業するまで、進学しないなら就職するまで、もしくは、それ以前に結婚とかなら、結婚式が済むまで、あの家にいます。ナナちゃんが独り立ちするまで責任を持つのが私の役目だと思うから」
「え。ちょっと待って。じゃあ、長くてあと6年ぐらいしか、うちにはいないってことなの?」
「そうね。ナナちゃんが来月結婚するなら、来月出て行かなくちゃね」
「来月結婚しないから! じゃ、私が独り立ちしたら……? 家庭内別居の次は、完全に別居になっちゃうの?」
「別居じゃなくて、たぶん離婚よね」
果林さんがあっけらかんと言った。
「お父さんっ!!!」
七都は父のシートをガシッとつかんだ。
けれども、父はハンドルを動かしながら静かに言う。
「果林がそうしたいなら、そうしよう。そうするしかない。引き止める理由もない。」
お父さん、意図してないかもしれないけど、しっかり残酷なくらいに言ってるよ。
わたしを育て終わったら、もう果林さんはお役目御免だって。
嘘でも果林さんを引き止めてほしかったのに。
嘘でも、彼女のことを愛しているから、これからもずっと家にいてくれって言ってくれたらよかったのに。
だが、そのほうが酷い。果林さんに嘘をつき、嘘で固めた家に、この先もいてもらう理由がどこにあるだろう?
あの家は、果林さんの善意で成り立ち、回っていた。
その果林さんが出て行くと告げたからといって、引き止める資格は父にも七都にもないのだ。
取りあえず、即離婚とかではなく、最長6年は果林さんが家にいてくれるというのだから、そのことを喜ぶべきなのかもしれない。
ストーフィが、じっと央人の後頭部を見つめている。うるうる目に頬染めてという感じだった。
母にしてみれば、何もしなくてもライバルが自らいなくなったわけだから、嬉しいに決まっている。自分の存在を明らかにできないとはいえ、父の心には自分しかいないということを改めて確認できたことも、嬉しかっただろう。
七都は、その銀色の丸い頭をひっぱたきたくなる。
そもそもお母さんがこっちに来たりするから、ややこしくなったんじゃない。お父さんの心の中がバレちゃったんじゃない。
何やら殺気を感じたのか、ストーフィが不思議そうに七都のほうを向いて首をかしげた。
「じゃあ、離婚前提の家庭内別居なの? もう元には戻らないの? ねえ、果林さん……」
「ごめんね、ナナちゃん。一度壊れたものは、元には戻らないの。たとえ戻ったとしてもヒビだらけ。元の姿じゃないし、それを保つ力は、もう働かない。私はもう働かせるのはやめるの。ナナちゃんのシュールな向こうの世界ではどうなってるのか知らないけど、こっちの世界では私たちは、どんなに悲しくても、つらくても、理不尽でも、それでもってどんなに疲れ果てても、自分に突きつけられた現実を生きていかなきゃならないのよ」
果林さんが、前を向いたまま言った。
彼女の言葉が胸のあたりに突き刺さるような気がする。
こちらの世界だけではない。向こう側だってそうだ。向こう側の世界で起こることも、すべて現実なのだ。
そして、やはり自分はいつも現実に背を向け、逃げようとしていたのではないだろうか。向こう側の世界で突きつけられた現実に向き合うことなく、周りに甘え、自分だけこちら側の安全な場所へと逃れて――。
そして、安全な場所であったはずの大切な家。七都の拠点であるその場所。そこが今、崩壊しかかっている。瀕死の状態で、砕け散る寸前になっている。いや、もはや砕け散った後かもしれない。
「それにね、私は自分の道を見つけたの。今までは、央人さんとナナちゃんに、主婦として私の仕事を提供してきたけど、これからは、もっとたくさんの人に私の仕事を見てもらえるわ。応援してくれるわよね?」
「うん、そうだよね。果林さん、うちだけに閉じこもってるの、もったいないもんね。ずっと前から、それは思ってた。応援するよ」
七都は言ったが、胸のあたりにぽっかりと開いた穴は消えない。
だが、感情的になって癇癪を起こすような子供にも、もうなれない。そんな年でもないのだから。
「ありがとう。帰ったら、央人さんに荷物を運ぶの、手伝ってもらうわ。ナナちゃんは早目にお休みなさい。今日はいろいろあったんでしょう。留守番させちゃった、あの赤い目の公爵さんにも、お礼を言って帰ってもらいましょうね」
「うん……」
七都は頷き、窓の外を流れていく夜の街に目をやった。
冷たい人工の光と闇色の影が七都の白い顔を横切っていく。
七都は、その景色を気を張り詰めて見つめ続けた。でないと、温かい液体が目から勝手にこぼれそうだった。




