第4章 三人の公爵 13
「そうよね。私……やっぱり、間違っていたわ」
彼女が呟く。
「え?」
「間違ってた?」
七都と央人は顔を見合わせる。
「どうせ元家政婦だからって、遠慮して、ひがんで、そのままずっと家政婦を続けた私が悪いんだわ。全部引き受けてしまってた私が間違っていたんだわ。家の中がこんなになってて、本当は嬉しいんだけど、でも、その嬉しさに乗っかってしまっちゃいけないんだわ。二人のためにやってたのに、二人のためになってなかった。私のためにもなってなかった……」
「果林さん、何言ってん……の……?」
「央人さん、ナナちゃん。二人に改めて話があるの。でも、その前にナナちゃんを病院に連れて行かなきゃね」
果林さんは言って、テーブルからゆっくりと手を離した。
「話って何?」
七都は訊ねたが、果林さんは、やんわりとそれを先送りにした。
「後でね。央人さん、車を出してくれる?」
「あ、ああ」
央人は、そのときに開けていた引き出しだけは、丁寧に閉める。
果林さんは、汚れもので溢れたシンクを見ないようにしながら冷蔵庫を開けて、ケーキの箱を入れた。
「それから、そこのイケメンさん」
果林さんは、ルーアンを振り返る。
ルーアンの態度はそれまでと変化はなかったが、七都には彼が心持ちのけぞったような気がした。
「はい? イケメンではなく、ルーアン、もしくはクラウデルファ公爵でよろしいですよ」
ルーアンは、いつもどおり穏やかに微笑む。何があっても、一瞬で態勢を整え直すのはさすがだと七都は思った。
「じゃあ、公爵さん。あなたは帰ってください、そのドアの向こうの元の世界へ。私たち、ちょっとこれから留守にしますので」
果林さんが、平然と言った。
「帰ってもよろしいですが、留守番なら喜んで致しますよ? ヒロトからも頼まれましたし」
ルーアンが申し出る。
七都も、慌てて付け加えた。
「そうだ、ルーアンは、まだ帰ってもらっちゃ困るんだ。彼との話がまだ終わってないんだから。病院に行ってる間、留守番しててもらおうよ」
ルーアンには、一緒にストーフィ=母を連れて帰ってもらわなくちゃ。この家の平和のために!
七都は焦る。
果林さんが戻った以上、この家にストーフィ=母を置いておくのはいけない。果林さんが危険だ。
猫の前にカツオブシを吊るすようなものではないか。
ルーアンが帰るとき、適当に理由をつけて、一緒にストーフィを持って帰ってもらおう。絶対にそうしなくちゃ。
「じゃあ、留守番お願いしますね、公爵さん」
果林さんが、さらりとルーアンに言った。
たぶんルーアンは、人間の女性に留守番なんかをお願いされたことはないだろうなあ。あと、面と向かって「帰ってください」なんてことも言われたことないだろうな。
七都は推測しながら、ルーアンに声をかける。
「ごめんね、ルーアン。テレビでも見ておいて。お父さんのDVDいろいろあるし。ガンダムでもマクロスでも、何でも好きなの、見てていいよ」
「私はボトムズあたりが好みですが」
ルーアンが言った。
「あ、もちろんボトムズありますよー」
央人が嬉しそうに横から入ってくる。
「何でもいいから、わたしたちが帰ってくるまで、適当に過ごしといて。鍵かけていくから、誰か来ても出なくてもいいよ。電話も出ないでいいし。大体こんな時間に誰も来ないし、電話もないと思うけど。さ、お父さん、果林さん、行こう」
「公爵、これ以上散らかさないでくださいね」
果林さんが最後につけ加えると、ルーアンは再びのけぞったようだったが、穏やかに微笑んだ。
「そうします」
七都がリビングを出ようとすると、ストーフィが何かを訴えるように七都を見上げる。
一緒に連れてって。
そう言いたいのがわかったが、七都は冷たく首を振った。
(ルーアンと一緒に、おとなしくお留守番しててよね、お母さん)
取りあえず、ストーフィと果林さんを接触させるのは、極力避けなければならない。たとえ自分が一緒にいたとしても、だ。
ルーアンに対しては、母本人がばらしたくないようなので、うまくやるだろう。
ナチグロも、母の正体をルーアンにばらすほど愚かではない。というか、そもそも今は猫なので喋る心配はない。
そして七都たち三人は、ルーアン、ナチグロ=ロビン、そして、ストーフィ=母を家に残して、家を出たのだった。
果林さんの話。いったい何だろう。
何の話かはわからない。けれども、その話を聞いた後、おそらくこの家は、それまでとは全く違ってしまうのかもしれない。何かがすっかり変わってしまう。もう元には戻らない。
七都は、そんな漠然とした不安を抱きしめながら、父の車に乗り込む。
運転席に父、助手席には果林さん、後部座席には七都。いつもの景色。何回も繰り返された、これからも繰り返されるはずの何げない景色だ。
だが、そんな景色を見るのさえ、もうこれが最後なのかもしれない。もし、そうだったら……。
「ナナちゃん、腕痛い?」
果林さんが、助手席から心配そうに振り返る。
「ううん、だいじょうぶ」
彼女の話を聞く時間が、いつまでもいつまでも来なければいい。
七都のそんな叶わぬ思いを断ち切るように、車はスピードを上げ、夜の濃い闇の中を病院へと向かった。




