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第1章 向こう側からの来訪者 3

 最初、七都は自分の目が信じられなかった。


 何か幻でも見ているのかと、あるいは自分の頭がどうかなってしまったのかと思った。

 いるはずのない物体がそこにいる。

 ソファの上に座っている。

 とんでもないものが、いつもの我が家の今に存在する。


 七都は、くるりと後ろを向いた。

 たぶん、体育の時間よりもうまく出来た。


「どうしたの?」


 ストーフィ=母が訊ねる。


「何か変なものが見えた。まだわたし、目がかすんでるのかな」


「おい」


 背後から声が聞こえた。

 ユードの声だった。

 向こうの世界でいやというほど聞いた、あの声。

 あまり褒めたくはないが、低音でよく響く、いい声だ。


「あー。空耳まで聞こえる……」


 七都は天井を向いて呟く。


「ナナトなのか?」


 声が再びした。

 七都は、ふううっと深呼吸をする。


「お母さん、当然見えるよね。ソファに座ってる人」


 七都は念のため、母に訊ねてみる。


「もちろん。黒ずくめの衣装の二枚目さんでしょ」


 母が古風な言い方で形容する。


「灰色の目が素敵ね。あなたをじっと見てるわよ。ちょっと目つきはよくないわね。あなたを追いかけて来たのかしら。誰なの? あなたの知り合い? ヒロトはあなたのボーイフレンドかも、なんて言ってたんだけど。そういう関係なの? まさかシルヴェリスと三角関係?」


 七都の深呼吸が溜め息に変わった。

 これはもう、覚悟を決めなければならない。

 彼はいるのだ。この部屋に。ソファの上に。

 だから父も母も、服を着替えるように言ったのだろう。

 両親にしてみれば、娘をパジャマ姿で若い男性の前に出したくはない。


 七都は、再びくるりと向きを変えた。

 真正面にユードが見える。

 彼は、鋭い視線で七都を眺めた。

 冬の曇り空のような灰色の目が七都を捉える。


「ナナトだよ。向こうの世界とはずいぶん違っているでしょうけどね」


 七都はユードに言った。


「驚いたな。それがあんたの本来の姿か。いや、まがいものの姿なのかもな」


 ユードが言う。

 日本語ではない。向こうの世界の言葉だ。けれども、何の違和感もなく七都の耳に入ってくる。

 

「悪かったね。どうせ向こうほど綺麗じゃないし、妖しくないし。びっくりして当然だよね」


 七都は、ユードを睨んだ。

 けれどもユードは、おもしろがっているかのように、七都を見つめた。

 先程より、顔つきがやわらかくなっているような気がする。

 少なくとも、向こうで彼が七都を見るときよりは穏やかなことは確かだ。


「いや、そんなに悪くはないと思うが。何せ人間だしな。今のあんたは魔神じゃない。そうだろう?」


「ま、まあ、そうだけどね」


 「悪くはない」と言われて、七都は複雑な気持ちになる。

 それ、どういう意味よ?


 七都は注意深く、ゆっくりと彼に近づいた。

 やはりまだ信じられない。夢を見ているようだ。

 コップやマントや猫ロボットではなく、向こうの生身の人間がこの世界に、しかもリビングのソファの上にいるなんて。

 

「なぜあなたがここにいるの? あなたはこっち側に来てはいけない人なんだよ」


 七都は、彼に訊ねた。


「そうね、ルール違反よね。遠からず、『見張り人』たちが飛んでくるでしょうね」


 ストーフィ=母が言う。

 ユードは、ストーフィには注意を向けなかった。

 じっと七都を眺めている。


「あ、言っておくけど、私の言葉はあなたにしか聞こえないからね」


 母が補足した。


「そうなんだ。安心した」


 七都は、ストーフィにささやく。


「あんたが扉を通り抜けた後、続いて入ってみた」


 ユードが言った。


「あんたの世界がどういうところか興味があったのでね。以前から、魔神族がどういうところに出入りしているのか知りたかったということもある」


「入ってみたって……。怖くなかったの? 不安とかは? よく入って来れたね。もう戻れなくなるかもしれない、なんて、毛ほども思わなかったの?」


 七都は、訊ねる。

 どういう神経をしているのだ、この魔神狩人は。


「扉の向こうには、確実にあんたがいるわけだからな。多少不安はあったが、そう酷いことにはならないと踏んだ」


 ユードが、どことなく飄々とした雰囲気で言う。

 七都は、あんぐりと口を開ける。

 向こうから帰ってきて、いったい何度口を開ければいいのだろう。


「信じられない!」


 七都は、ソファに座った。

 途端に、七都の頬の横に、何か透明な冷たいきらめきが伸びた。

 ストーフィ=母が、びくりと体を震わせて身を低くする。

 剣だった。エヴァンレットの剣だ。


 ユードが、七都の首とストーフィの間あたりにエヴァンレットの剣を突きつけていた。

 初対面のときに彼がそうしたように。


「なに、この人、魔神狩人なの!?」


 ストーフィ=母が叫ぶ。


「やめてよ、そんな危ないもの出すのは!」


 七都はユードをキッと睨んだ。


「言っておくけどね、この世界では、そういうものを持って歩くだけで犯罪なんだからね」


「何とまあ、のんびりした、いい世界だ」


 ユードが言った。

 口元が歪んでいる。苦笑しているようだ。


「やはり光らないな。人間なのだから当然だな。あんたは向こうでも外見は人間で、剣は光らなかったしな」


 ユードは、素早く剣を鞘に収める。

 見惚れるくらいに華麗な動作だった。

 ユードは、再びゆったりとソファに腰を下ろす。


「お母さん、この人、一緒に連れて帰ってよ」


 七都は、自分の首にしがみついているストーフィ=母に小声で言った。


「いやよ、魔神狩人を連れて帰るなんて。魔神族の天敵じゃないのよ!」


 母が言った。ストーフィの目の中に、赤い光が揺れている。


「えー。じゃあ、わたしが連れて帰らなきゃならないの?」


「そのうち、『見張り人』たちが来て、連れてってくれるわよ」


「見張り人さんたち、いつ来るの?」


「近いうちに来るんじゃない? 今頃気がついて、慌てふためいて探してるはずだから」


「……なんだ?」


 ユードが、じいっと七都を見る。

 母の声が聞こえない彼は、七都がぶつぶつと何やらひとりごとを呟いているように見えたはずだった。

 

「ううん、なんでもない。……ん?」


 七都は、ユードが手にしているものを見下ろした。

 スプーンだ。スプーンを軽く握っている。

 そしてもう片方の手に持っている、紙製のカップのようなもの。

 七都は、またしてもあんぐりと口を開ける。


「そ、それ!? あなた、何食べて……!??」


「うまいな」


 ユードは、ぱくりとスプーンですくったものにかぶりついた。


「甘酸っぱいが、歯に刺さるくらいに冷たい。誰かみたいだな」


 言いながらユードは、それを乗せたスプーンを何度か口に運ぶ。

 白っぽい滑らかな地に、赤いまだら模様の食べ物。

 アイスクリームだった。

 七都が向こうの世界に行く前に、自分のおこづかいで買っておいた、ストロベリーアイスクリーム。

 七都のお気に入りのアイスクリームだ。

 値段が高いので、果林さんに買って欲しいとは言えない。

 たまに自分のお金で買うのが楽しみであり、小さな贅沢だった。

 今回も向こうから帰ったら、宿題をした後に食べようと思って用意しておいたのだ。


 七都の髪が逆立った。

 

「わたしの大切なアイス!! 何であなたが食べてるんだよっ!!!」


「あんたの父上らしき人が出してくれたからだ。だから、遠慮なくいただいている」


 ユードが、のほほんと答える。


「お父さんがっ!!」


「こちらもうまかったぞ」


 ユードが指差す。


 そこには、メロン色の容器が置かれていた。

 果林さんが作ったキャラメルアイスが、いつも入っているはずの容器だ。

 七都が大好きなので、果林さんが切らさずに、常に冷凍庫に入れてくれているものだった。

 容器いっぱいに詰め込まれたキャラメルアイスを大きなスプーンですくって食べるのが醍醐味なのだ。

 けれども今、その容器には、キャラメルアイスなど跡形もない。

 茶色の汚れのようなものが、底に薄っすらと溜まっているだけだ。

 空っぽ……だ。


「キャ、キャラメルアイスがーっ!!」


 七都は叫んだ。前歯が全部、シャキーンと尖りそうな気分だった。


「似合わない! ぜーったいに似合わない! あなたにアイスクリームなんてっ!!!」


「この世界では、似合う似合わないで食べ物が決まるのか?」


 ユードが、少し冷ややかに訊ねた。


「そ、そういうわけではないけどっ!」


 七都は、くわっと口を開ける。


「あなたにそんなかわいい食べ物なんて似合わないって言ってるの!」


「かわいい?」


 ユードは、手に持った最後のひとすくいであるキャラメルアイスをしげしげと眺めた。

 それから、真面目っぽく七都に質問する。


「この世界では、食べ物がかわいかったりするのか?」


「表現の文化の違いだよ!」


 七都は答えたが、いちいち説明するのがめんどうになってくる。

 この分では、彼は疑問に思ったことは、片っ端から七都に訊ねてきそうだ。


「でも、お父さん、何でアイスクリームなんかをあなたに……」


 言いながら、何げなく振り返った七都は飛び上がった。

 キッチンの流しの中に、汚れた皿類が山のように盛られてあるのが目に入ったからだ。

 体から力がすとんと抜けていくようだった。

 流しにそうやって盛られているものの意味するところが、わかりすぎるくらいにわかってしまう。父が先程、七都に言った言葉の意味も。

 七都は、ユードに向き直った。


「あなたが食べたの、それだけじゃなさそうだね」


「この甘くて冷たいものに至る前に、何やらたくさん食べたな。うまかったぞ。あんたの父上が、何回もその白い箱から取り出しては運んでくれた。あんたの父上は、魔法使いか何かか?」


 ユードが、『白い箱』を指差して言った。

 七都は、一応その物体に目をやる。もちろん電子レンジだった。

 つまり央人は、冷凍食品を電子レンジに入れて加熱してはユードに出したのだ。何度も何度も。

 果林さんが七都のために作っておいてくれた冷凍の料理を、だ。


「お父さんは、正真正銘、混じりっけなしの人間だよ! この世界では、魔法使いなんて物語の中でしか生息しないの! 」


「物語の中か。しかし、それも少し寂しいな」


 ユードがキャラメルアイスを舐めながら呟いた。


 七都はストーフィ=母を首に巻きつけたまま立ち上がり、キッチンに移動した。そして冷凍庫を開けてみる。

 思ったとおり、中は空っぽだった。こんなに空虚な冷凍庫は見たことがない。いつも冷凍庫は果林さんがいっぱいにしているのだ。

 今入っているものといえば、氷と七都のお弁当用の保冷剤くらいだった。

 星の形の保冷剤の濃いブルーが、虚しいくらい鮮やかに目立っている。

 

「うう。信じられない。グラタンは? カレーは? ビーフストロガノフは? 春巻きも中華スープも、ぜーんぶ彼の胃の中に消えたってこと?」


 七都は、向こうの世界に行く前に見た、果林さん作の数々の料理を思い出す。

 あれは全部冷凍されて、この中に入っていたはずなのだ。

 けれども、もうない。

 父が眠りから目覚めて空腹だったユードに全部出してしまったからだ。


 だから、父は先程、七都に言ったのだった。


<目玉焼きとインスタントラーメン、頑張って作ってくれたまえ>


「さもしいわねえ。私だけじゃなくて、あなただってお姫さまなのよ。食べ物くらい、好きなだけ買ってくればいいじゃない。コンビニだって、十五年前よりは近所にたくさん出来てるでしょう?」


 首に巻きついていたストーフィ=母が、涙目で空の冷凍庫を見つめている七都に言う。


「買ってくればって……。簡単に言うけど、果林さんが作る料理は、とてもおいし……」


 言いかけて、七都は、はっと口をつぐむ。

 その時には遅かった。

 既にストーフィ=母は、無言で七都をじっと見上げていた。

 ストーフィ自体は機械なのでやはり無表情だったが、目の中の光は沈むような暗い青だった。


 まずい。母の前で果林さんを褒めるのは。

 落ち込ませてしまうのは明白。傷つけてしまうのも当然。わかりやす過ぎる。


「そ、そうだね。買ってくればいいよね。私、卵焼きとインスタントラーメンしか作れないし。それじゃ、とても足りないし」


「何をひとりでぶつくさ言ってるんだ」


 ユードの声が、背中に突き刺さる。


「あなたが食べてしまったから、私の食料がなくなったんだよっ!」


 七都は、彼に向かって怒鳴った。


「そりゃあ、仕方ないかもしれないけど。向こうからこちらに来たら、途端に眠りこけて、そんでもって空腹になってバカ食いすることになるんだから」


「食料か……」


 ユードが、おもむろに立ち上がる。

 完璧に彼は笑っていた。

 向こう側では、決して七都に見せなかった表情だ。

 七都は呆気にとられて、その表情のまま近づいてくる彼を眺める。


 わ、笑ってるよお。いつも苦虫を噛み潰したみたいな顔してるくせに……。


「やっぱり、あんたはここでは人間なんだな。扉の向こうでは魔神族で人間の血をすするあんたも、ここでは人間の食料を食べているというわけか」


「悪かったね! それにわたしは、向こうでも人間の血なんかすすらないから!」


 七都は彼を睨んだ。

 ユードは、音もなく七都のそばに立つ。

 黒いマントがふわりと揺れた。


 え? なに、この近さ?


 七都はユードを見上げる。

 こちらに戻った七都は、向こうの世界の体よりは背が高い。けれども、それでもやはりユードを見上げる形になってしまう。

 彼は、おそらく百八十センチ以上は身長があるだろう。

 見下ろされたら、かよわい女の子としては圧倒されてしまう。


 す、とユードの手が七都の頬に伸びた。

 温かい指が七都に皮膚に触れる。


「何をするっ!!」


 七都は、手のひらをおもいっきり彼にたたきつけた。かつてゼフィーアの館で彼にそうしたように。

 けれども七都の手首は彼の手に、ぱしんと握られてしまう。あっけないほどだった。


「あたたかいな。やはり人間の体だ」


 ユードが、まだ笑みを浮べながら言った。

 

「魔神族の馬鹿力も持っていないようだ。魔法も使えないと言っていたな」


「この部屋の体感温度を極端に下げるのは出来るかもしれないけどね。離してよ!」


 七都は、ユードに手をつかまれたまま、彼を睨んだ。


 じわり、と彼に対して抱く威圧感が、恐怖へと移行していく。

 この世界では、自分は人間。ただの女子高校生だ。

 彼の言うとおり、自分でもコントロール出来なかったあの力も出ないし、魔力も使えない。

 男性である彼のほうが優位なのだ。体の大きさも、力も。しかも彼は魔神狩人。戦いに関してはエキスパートだ。

 七都が彼に抗う術など、なきに等しい。

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