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第3章 洋館の魔神たち 20

「わたしたち、そろそろ帰らなきゃ。皆、心配してるしね」


 七都は、由惟子に言った。

 これ以上、ここにいる必要もない。

 洋館が倒壊したとはいえ、七都には関係のないことだ。

 死人も怪我人もいない。長居は無用。

 ここで立ち去ったとしても、誰にもとやかく言われる筋合いもない。それどころか、ここにいること自体、完璧に野次馬だ。

 それに、このまま由惟子と一緒にいると、もっと嘘を付かなければならない羽目になる。

 そして、そのうち嘘が付けなくなって、ボロを出してしまいかねない。


「でも、七都。裸足で帰るの?」


 由惟子は、先程の疑問と心配を蒸し返す。


「えーと……」


 この疑問にちゃんと答えないと、由惟子はこのまま七都を家に帰してくれそうもなかった。

 今度は、近くのスーパーで履くものを買ってきてあげると言い出しかねない。

 七都は視線をさまよわせ、再びそれをユードに着地させる。


「そ、そうだ。彼におんぶして行ってもらうよ。なら、いいでしょ?」


 七都に指をさされて、ユードの眉間に皺が寄った。

 このまま彼をダシにし続けたら、そのうち確実に、いつもの苦虫を噛み潰した顔以上になりそうだ。


 由惟子は、呆気に取られたように七都とユードを見比べていたが、やがて頷く。


「そうだね。それはいい方法だ。彼、見た目は細身だけど、力ありそうだし」


「うん。すっごい力持ちだよ」


 何せ、魔神族と日々戦っているハンターだ。凄いのは力だけではない。

 問題は、彼が協力的に七都をおぶってくれるかどうかだが、もちろん七都は、彼にそんなことを頼む気は毛頭なかった。

 家まで裸足で歩いて帰る。それは、由惟子に指摘された時から決めていた。


「それなら足も汚れないね。じゃあ、また。今度の登校日に」


 そうだ、まだ夏休みだった。今度の登校日っていつだったっけ……。

 生徒手帳を見ればわかるかな。

 だめだなあ、まだ異世界気分が抜けていない。しっかりしなくちゃ。


「外人さん、あなたも元気でね。もう黙って、この辺をうろちょろしちゃダメだよ」


 由惟子はユードに声をかけたが、ユードは怪訝そうな顔つきをしたまま、突っ立っていた。

 由惟子は、歯を見せて笑う。


「残念だなあ。言葉がわかったら、もっとお話できたのに……」


「いろいろありがとうね。由惟子のおかげで、彼も公共機関のお世話にならなくて済んだよ。本当に助かった」


 言葉がわからなかったから、よかったんだ。

 ユードがこの世界の言葉を理解したら、どんな面倒なことになっていたんだか。

 少なくとも、『ロボット工学を研究している、将来ノーベル賞候補なのだけれど、ゲームおたくでコスプレ好きな、ちょっと残念なイケメン外人科学者』どころではなかったよね。

 七都は、心の中で思った。


「七都、本当に来るよね、今度の登校日?」


 由惟子が首をかしげ、確認するように訊ねる。


「え、行くよ? 何で?」


「よかった。だって、前の登校日も、その前も、七都は来なかったから。クラブにも来なかったよね。合宿、あんなに楽しみにしていたのに、結局……。電話してみたら、七都は旅行中だって果林さんが慌てたように。どこに旅行なのか聞いたけど、答えてくれないの。その外人さんの国だったのかな。何にしろ……長い旅行だったよね」


「うん。長い旅行だった……」


 七都は呟く。

 そうか。クラブの合宿、さぼっちゃったんだ。行きたかったな……。


 美術部の合宿は、奈良の民宿に泊まって、あたりの風景をスケッチする、というものだった。

 体育会系の厳しさなど微塵もない、ゆったりとした、おだやかな合宿。

 七都は楽しみにしていたのだが、必然的に何の前触れもなく、いきなりさぼることになってしまった。 

 果林さんにしてみても、旅行中としか言い訳できなかったに違いない。

 まさか、『七都は今、扉の向こう側にある異世界に行ってるの。だから、美術部の合宿は行けなくなっちゃったの』、なんて言えるわけもないのだ。


 けれども、もう夏休みも終わりだ。

 扉の向こうの世界にも、あれほど長くいることもないだろう。いや、ないことを願いたい。

 これからは、たとえ週末や連休に向こうに行くにしろ、こちらの世界のことを優先しなければ。

 まず、夏休みの宿題を片付けなければ。


「ちょっとね、心配してたんだ。七都は、家庭環境が家庭環境だから」


 由惟子が言った。


「え? まま、まさか、果林さんがわたしをどうにかしたとか思ってたの? やーね、由惟子ったら! それ、あなたの好きな推理サスペンスドラマの世界!」


 七都は苦笑する。


「その可能性も疑っちゃったよ。彼女がそんなことするはずもないけど。言い訳が何だか怪しかったし、変に慌ててたし。まあ、他人の家のことを詮索しちゃだめだよね。ごめんね。何だか七都がもう帰って来ないような……もう会えないような気がして……」


「やだなあ、由惟子ったら。でも、謝ることなんかないよ。いきなり黙って旅行に行っちゃうわたしが悪いんだし……。由惟子にそんな心配や疑惑を抱かせてしまうようなことになったのも、わたしのせいだ。連絡すればよかったんだけど、突然決まっちゃって……。ほんと、ごめん」


 少なくとも、由惟子にはメールしておけばよかったかな。

 七都は、後悔した。

 そうすれば、合宿で迷惑かけることもなかっただろうに。妙な心配をさせることもなかった。

 だが、もちろんそれは、嘘のメールになっていたはずだ。


「ううん。とにかく、夏休みの間にまた七都に会えてよかったよ。何かね。何となく、だけど……」


 由惟子は七都を見つめ、神妙な顔つきをする。


「ん? なに?」


「七都……雰囲気、変わったね。夏休みの前とは」


 由惟子が、ぽつりと言う。

 小さな遠慮がちな声だったが、その声は湿った暑い夜の空気の中にしっかりと響いた。


「え? そ、そうかな? 自分では全然わかんないよ?」


 七都は笑おうとしたが、上手く笑えなかった。


「変わったよ。なんというか、大人っぽくなったっていうか。近づきがたくなったっていうか。前とは全然別のオーラが取っ付いたっていうか」


「そんなことないよ?」


「……だよね。私の思い過ごしだよね。正直、さっき七都を見かけたとき、ちょっと怖かったんだ。今までの七都じゃないみたいで。会ったのが夏の夜ってこともあるかもしれないけど。ううん、この洋館が倒壊した現場だったってことが大きいのかな」


「やだ、由惟子ったら。わたしをお化け扱いするの? 怖くないよー」


 七都は、怪我をしていないほうの手を上げ、ゾンビの格好をして見せる。

 由惟子が微笑んだ。


「話してみたら、いつもの七都だった。安心したよ。考えてみれば、私たちは日々成長中だものね。子供と大人の間の不安定な場所にいるんだ。ひと夏で多少変わってもおかしくないよね。というか、私も変わらなくちゃ、なのかも。じゃあ、また」

 

「またね、由惟子。登校日に」


 七都も、彼女に頷いて見せた。

 由惟子の姿は、すぐに野次馬の人々の間に紛れて消えてしまう。

 七都とユードは黙り込んだまま、それを見送った。


(子供と大人の間の不安定な場所か……)


 七都は、由惟子が口にした言葉を反復してみる。

 十代の真ん中。人生に訪れる、切なく、美しく、あっという間に過ぎて行くという、少女の時期。


(わたしの場合は、たぶんそれだけじゃないんだよね。魔神族と人間の間の、不安定な場所だ)


 由惟子の言葉にどきりとした。

 

 <何だか七都がもう帰って来ないような……もう会えないような気がして……>


 由惟子、たぶんそれ、当たってるよ。

 わたしはもう、今までのわたしじゃない。

 この世界で平凡な高校生活を過ごしていた、夏休み前までの阿由葉七都は、もう存在しない。

 あの扉を開けたとき、以前のわたしはいなくなったんだ。

 異世界で魔神族の体になって旅をし、魔力を使えるようになったわたしは、完全な人間ではなくなった。

 由惟子に怖いなんて思わせてしまったのは、向こうでの『魔神族』をこちらにも引きずってきているからなのかもしれない。

 こちらでも、全部が全部、前と同じであるわけはないんだ……。


「じゃあ、わたしたちも帰ろう。魔神狩人のユード、もうこの世界での観光はおしまいだよ」


 七都は、ユードに声をかける。


「『ヒョーホン』は免れたわけだな」


 ユードが言った。

 七都は、くわっと口を開ける。


「もう、あなたね! 由惟子に出会えてよかったんだよ。ほんと悪運強いんだから。彼女に出会えたことを感謝しなさい!」


「感謝は、私なりにしている。ただ、それを態度や言葉で表せなかったのは残念だ」


 ストーフィを肩に乗せたユードが、七都に近づいた。

 途端に、七都の体がふわりを宙に浮く。

 このお馴染みの感覚は……。

 七都は、思わず顔をしかめる。

 当たりだ。

 ユードの顔が、すぐそばにあった。

 彼の両手は、しっかりと七都を支えている。


(うわ。またお姫様だっこされてる……)


「何すんの! もう洋館の中じゃないし! 危険は去ったし!」


 七都は、叫んだ。


「このまま歩いて帰るのか? この世界でも、靴を履くのは常識のようだが?」


(いいじゃない。そのまま、この人にだっこして行ってもらいなさいよ。おんぶしてもらうより、このほうが絶対いいと思うのよね)


 母の声が、頭の中に響いた。

 ユードの肩の上のストーフィが、至近距離から七都を見下ろす。


(えええ。お姫様だっこのほうが、やだよ!)


(あら、そうお? だって、おんぶしてもらったら、七都の胸がこの人の背中にモロに……。私は嫌だな)


 七都は、顔をしかめる。母は、さらに続けた。


(ヒロトによると、男の人ってそういうこと、割と敏感に……)


「わかった!  私もイヤだ! このままお姫様だっこで家まで連れてってもらう!!」


「誰と話してるんだ? 『オカアサン』か?」


 七都を抱えながら、既に歩き出したユードが訊ねる。

 墓石のように白くぼうっと浮かび上がる洋館の残骸が次第に遠くなり、夏の夜の中に消えて行く。


「そうだよ! ユード、あなたって、本当にいい人だ! 魔神狩人にしとくなんて、もったいないよ!」


 七都は、自棄になって叫んだ。

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