第3章 洋館の魔神たち 16
廊下は軋み、不気味な音をたてていた。壁が裂け、天井のあらゆるものが落下する。
ストーフィは、上手に障害物をよけて、七都たちの先を行く。
支えるものを失ったシャンデリアが、二人をめがけて真っ直ぐに落ちてくる。
ユードは七都にマントを被せ、七都を強く抱え込んだ。
二人のすぐ横に、シャンデリアが落ち、ガラスが派手に飛び散った。
(あたたかい……)
七都は、ユードの体温を感じる。
魔神族の体でいる時より、人間の体温は低く思えた。
だが、今は安心してそれを感じていられる。やはり魔神族の体の時は、人間に対してある欲求を持ってしまう。
それは、どれだけ否定しても拭い去ることは出来ない、魔神族の本能だ。
(変だよね。この人、魔神狩人なのに。私を殺そうとしたのに。こちらの世界では、私を守ってくれている……)
奇妙な気持ちだ。あんなに嫌い、怖かった彼に、今助けてもらっている。
もちろん、理由はわかっている。今は、七都がただの人間だからだ。
そしてあるいは、向こうでの七都が、彼の知っている誰かに似ているため。
(公爵にも突っ込まれてたよね、ユード。おかしな理屈だって。矛盾してるってこと、自分でもわかってるのだろうに)
七都がいなくなれば、彼の敵である魔神族も一人消える。しかも彼は、七都が魔王の一族ということにも気づいている。
将来は魔王の花嫁となり、次の世代の魔王を生むかもしれないということも、七都と最初に会った時に、既に自分で口にしている。
ここで行動を起こせば、手間が省けるだろうに。こちらの世界では、七都は魔力も馬鹿力も使えない。側近たちもいない。無防備も同然なのだ。
なのに彼は、七都を助けてくれている。
(本当にいい人なんだよね、ユード。だけど、外見はとても冷静に見えるけど、ブレまくってるよ……。いつかそれが、魔神族の餌食にならなければいいんだけど……)
柱が歪み、壁にたくさんの穴が開く。
窓ガラスが凄まじい音をたてて、割れ落ちる。
垢抜けたステンドグラスも、美しい風景が描かれた絵画も、高級そうな家具も、花の形をした綺麗なランプも。すべてが容赦なく、瓦礫へと変わっていく。
ストーフィは、まるで洋館の中をよく知っているかのように、七都たちを導いた。
落下物を上手に除けながら、時折後ろを向いて立ち止まり、七都たちが来るのを待った。
やがて、ストーフィの金属の小さな丸い体は、正面に現れた、真っ黒い長方形の中に吸い込まれる。
黒い長方形の上のほうに、銀色に輝く小さなものが沢山浮かんでいた。星だ。
それは、大きく開いた玄関ドアだった。
「出口だ!」
七都は、ユードに叫んだ。
ユードは黙ったまま、スピードを上げて走る。
バリバリという凄まじい音を立てて、天井が二人を追いかけるように崩れてくる。
玄関の明かりが、一斉に消える。
七都は、ユードにしがみついた。
熱く乾いた空気が七都を覆う。落下する建材の音は遠くなっていた。
七都は、目を開ける。
開けた風景。街路樹の影、アスファルトの道路、石畳の歩道。
七都が通学に使っている、見慣れた道路だった。ただ、昼間ではなく夜のせいか、いつもとは違った景色に見えた。
背後に、音をたてて崩れていく洋館が見える。
歪んだ窓の中に灯る明かりが、点いたり消えたりしていた。それは、あまりにも悲しく、滑稽でもあった。
ユードは、七都をゆっくりと地面へ降ろした。
七都は、街灯に照らされた彼の顔をじっと見る。
ユードは、七都を見つめ返した。相変わらずのしかめっ面だ。
あんな状況の中、七都を抱えて通り抜けてきたので、それは無理もないかもしれなかった。
「ありがとう、守ってくれて」
「守ったつもりはないぞ」
ユードが、さらに眉をしかめる。
「じゃあ。助けてくれてありがとう」
「あの部屋にあのまま置いとくわけにもいかんからな」
「またまた照れちゃって。わたしを助けに窓から飛び込んで来てくれたんじゃないの?」
「勘違いするな。剣が光ったから、飛び込んだだけだ。それから、あの機械猫が、この家の前で座り込んだまま、動かなかったからだ。あんたがあの家にいるなんて、知るわけがなかろうが」
「あっそ。じゃあ、そういうことにしといてあげるよ。『やはりあんた絡みか』って言ったの、しっかり聞いちゃったんだからね」
「何だと?」
「ううん、何でもないよ。ところで、あなたには怪我はない?」
「特にない」
ユードが、にべもなく答える。
「っていうか、あなた元々、腕にケガしてたじゃない。わたしをお姫様だっこなんかして、本当に大丈夫だったの?」
「もう腕は、ほぼ完治している」
「驚異的だね。魔神族並みだ」
「私は人間だ。治るのは、魔神族よりはるかに遅いからな」
その時、耳障りな大きな音が響いた。洋館が、最後の叫びをあげるように。
七都は、洋館を振り返る。
洋館は、まさに倒壊するところだった。
外壁に張ってあったタイルが滝のように剥がれ落ち、屋根から落ちた瓦が砕けて飛び散る。大きな煙突が引きちぎられるように倒れ、地面へと突き刺さった。
やがて洋館は、外壁を僅かに残し、巨大な怪獣に一撃されたように崩れた。
ちぎれた蔦が、たくさんの黒い蝙蝠のような影となって、庭に散らばる。
草の匂いと湿った土の匂い、黴を含んだ埃の匂いが、夏の夜の空気と混じり合った。
七都は、咳き込み、鼻と口を押さえる。目もチカチカと痛かった。
(この家の壊れ方……。写真で見たことがある)
それは、小学校の授業の副読本で、あるいは図書館の写真集で見たことのある写真。
七都が生まれる前にあったという大震災で倒壊した家々。その壊れ方にそっくりだった。
(多少不気味だけど、素敵な異人館だったのに……)
外はともかく、室内は、廊下からちらりと垣間見ただけだった。それでも、歓声を上げたくなるくらいの華麗さであったことは確かだ。
置いてあった家具や装飾品も、豪華で洗練されたものばかり。もしかしたら、魔神族の公爵の趣味だったのかもしれない。
廊下の手の込んだステンドグラスも、美しい絵画も、年代物のピアノも、もう誰かに愛でられることはない。
すべて、この館の主と共に失われてしまった。
高村由惟子が、この建物が倒壊したことを知ったら、どれだけ悲しむだろう。
七都は、ふと、ここのファンだった美術部の友人のことを思い出す。
「なによ、これ! どういうこと!?」
その当の高村由惟子の泣きそうな声が、近くから聞こえた。
七都は驚いて、振り返る。
制服姿の高村由惟子が、歩道に突っ立っていた。
由惟子は、学校では髪を後ろで地味にまとめて束ねているのだが、今はツインテールに分けて括っている。
そのせいで、いつもとは少し違った印象に見えた。
由惟子は、眼鏡の奥のくりくりとした目を、崩れた洋館から七都へと移動させる。
やっと、そこに七都がいることに気づいたようだった。
「七都!? あなた、何でこんなところにいるの!?」