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第3章 洋館の魔神たち 15

「魔王の口づけ……だと?」


 ユードは、七都を見つめたまま、鸚鵡返しに呟いた。


「魔王さまが、あなたの額にキスしたんだよ。その跡が花びらみたいな印になって、あなたの額に残ってるんだ。あ、もしかして、固まってる?」


 彼が愕然としているのか、放心状態なのか、それとも何か思い当たることがあるのかは、七都にはわからなかった。

 相変わらずの眉をしかめた険しい表情のまま、黙り込んでいる。


 七都は爪先立ちで手を伸ばし、ユードの前髪を上げてみた。

 ストーフィがびっくりしたように、まんまるの目で七都を見守る。


 ユードの額には、魔王の口づけの印はなかった。

 少なくとも、七都には印は見えない。

 そこにあるのは、何の皺もシミもない、若者の美しい額だ。


「あれ。こっちでは見えないな」


 ユードは前髪を上げられたまま、じろりと七都を見下ろした。


「ってことは、わたしはこちらでは、やっぱり人間ってことか」


(だけど、グリアモスの姿は見えたよね。わたしに、わざと見えるようにしていたってことは考えられるけど)


(私には、魔神狩人さんにある口づけの印は見えるわよ)


 ストーフィの中の母が、七都の頭の中で言う。


(そうだ、お母さんにはわかるよね。ユードの額のキスって、どの魔王さまが付けたものなのか……あれ?)


 ふわりと、七都の体が宙に浮いた。

 ユードのしかめっ面と、ストーフィののっぺりした銀色の顔が、七都のすぐ斜め後ろにあった。とんでもない近距離だ。

 すぐに七都は、自分がユードに抱きかかえられていることに気が付く。


「何をす……!!!」


 七都が今まで立っていた場所に、平たい建材の欠片がバサリと落ちる。

 天井には、大きな穴が開いていた。


「ここから出るぞ、人間のお嬢さま!」


 ユードが怒鳴った。


「ぎゃああああ、お姫さまだっこ!!!!!」


「怪我人は騒ぐな。今のあんたに魔神族の力と素早さは期待できないからな」


 ばらばらと、天井から建材がさらに降ってくる。

 本格的に家が崩れ始めたようだ。

 崩れているのではなく、家が自分の意思で自分自身を手当たり次第に壊しているかのようだった。

 この分では、全壊するまでそんなにかかるまい。


「待って! ディートリヒさんにお別れを言わなきゃ。降ろしてよ!」


「面倒だな。このまま言ったらいいだろう?」


 ユードは七都とストーフィを抱えたまま、ベッドのほうに向きを変えた。

 

「よろしいですのに、お別れなど……」


 七都とユードのやりとりがおかしかったのか、ベッドの上のディートリヒが、くすっと笑う。

 その顔は、さっき見たときよりも数十年分は年老いていた。


「本当の名前を呼ばれたのは、久方ぶりでした。とても嬉しかったです。私への数々のお気遣いも感謝しております。どうかお元気で、風の姫君。」


「さようなら、ディートリヒ・アンデルスさん……。そして、私のよく知っている人の、実のお父さま。よい旅を……」


 七都は、彼に言った。

 他に何か言葉を考えようとしたが、それしか考え付かなかった。

 簡単でもいいから、何かドイツ語でお別れの挨拶とかが出来たら、もっとよかったのかもしれない。七都は思う。


「ありがとうございます……」


 七都にお礼を言った後、ディートリヒはユードを見上げた。

 早送り映像のように次々と皺が刻まれていく顔の中で、目だけが、そのままの海の青だった。

 シャルディンやサリアがそうだったように。

 

「魔神狩人どの……。あなたの額の印とあなたの職業が、あなたを不幸に貶めることがないよう、願ってやみません……」


 しわがれた老人の声で、彼が言った。


「魔神族と関わる仕事を選んだ時から、幸せなどというものは、既に放棄している」


 ユードが呟く。


「覚悟は出来ておられるというわけですね……。それは末頼もしい。では、お元気で……」


 ディートリヒの目蓋が閉じられ、青い海の色の目は、その奥に隠れてしまう。

 金の髪は白髪となり、彼の目の周囲は、頭蓋骨の形に沿って窪んでいった。

 天井から落ちてくる建材の量が増えて行く。壁の亀裂は至る所に走っていた。


 ユードは、再びくるりとドアのほうを向く。

 廊下に通じるドアは、閉まっていた。 

 七都を閉じ込めていたくらいだから、鍵はかかっているに違いない。


「窓から出るしかないか。となると、やはり少しばかり降りてもらおうかな、人間のお嬢さん。このままでは出られる状態ではないからな」


 ユードとストーフィが飛び込んできた窓には、割れて尖ったガラスが、まだ沢山残っている。

 安全な出口を確保するために、ユードはそれを取り除くつもりなのだろう。


「もう。最初から、降ろしてくれたらよかったんじゃない。私も手伝うから」


 その時、ストーフィが、ユードの肩から滑り落ちる。


「あ、お母さ……!」


 ストーフィは、床に両足を付けて立った。

 どうやら滑り落ちたのではなく、自分でユードの肩から滑り降りたようだ。

 すぐにストーフィは、前足も床に付け、四つん這いになる。


「何をする気だ?」


 ユードが、ストーフィを見下ろした。


「あれ、また四足歩行?」


 地の都の砂漠でも、ストーフィはいきなり四つん這いになって走り出したことを七都は思い出す。

 もちろんあの時も、母の意思でストーフィはそういう行動を取ったのだろう。砂漠で七都と同行するため、そして風の都の入り口まで案内するために。


 ストーフィは、じいっと木製のドアを眺めた後、いきなりドアに突進した。とんでもないスピードだった。

 当然ドアにぶつかり、跳ね返されてひっくり返る……という七都の予想を見事に裏切り、ストーフィはそのままドアを突き破った。

 ドン、という大きな音がして、ドアにはストーフィの大きさの穴が、ぽっかりと開く。


「うわ、凄い。漫画みたい」


「この小さな穴では、我々は通れん」


 ユードが言った瞬間、ドアノブが取れて、こちら側に転がり落ちてきた。

 すぐに、穴だらけとなったドアが開く。

 得意げなストーフィが、ドアの向こうから顔を出す。もちろんストーフィは無表情なのだが、七都にはそう見えた。


「頭突きをして、鍵ごと破壊したのか、こいつ?」


 ユードが呟く。


「拳骨でノブを壊したのかも。回し蹴りかな? でも、さすが! さっき、抜けてるなんて言って、ごめんね。あっ……」


 七都は、ふとディートリヒのベッドを振り返って声を上げる。

 ベッドのどこにも、ディートリヒの姿はなかった。

 彼がさっきまで横たわっていた場所に、彼の形に少しだけ窪みが残っているだけだ。

 青いカバーに、壁の欠片が剥がれ落ちて、降り積もっていく。

 ディートリヒの体は、彼の本当の年齢に戻り、灰となって消滅したのだろう。


「ディートリヒさんが……! 大変、すぐにここ、全部崩れるよ!!」


「家の主がいなくなったからな。行くぞ!」


「あ、わたし、自分で走るから! 怪我してるのは手なんだし。お姫様だっこは、もう、いい……」


 七都が言い終わらないうちに、ユードは再び七都を抱き上げた。


「あんたは今、裸足だが? 足にも怪我が増えるぞ」


「う……」


 もちろん、ディートリヒの部屋の窓際に置いてある自分のサンダルを取ってきて、履く時間などはなかった。

 七都は大きく呼吸をした後、声を絞り出した。


「……お願いします」


 ユードは七都を抱えたまま、走り出した。

落下する建材の間に、四つん這いになって駆けるストーフィが見えた。出口まで案内してくれるようだ。


(さよなら……)


 七都はユードの肩越しに、もう一度ディートリヒのベッドに向かってお別れを言った。

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