第3章 洋館の魔神たち 11
「姫君、どちらへ? あなたが行かれる場所は、あのタンスの中ですよ」
グリアモスが言った。
「公爵さまと一緒に、どうぞあの中へ」
黒い尻尾が、七都の反応を伺うように、ゆらゆらと揺れる。
「嫌だ!!」
七都は搾り出すような声で呟く。
けれども、もう窓には飛び込めない。
グリアモスがいる限り、窓に近づくのは不可能だ。
そして、グリアモスの反対側には、ディートリヒの中に入った魔貴族の公爵が待ち構えている。
彼らがこちらの世界で魔力が使えないとしても、もちろん七都よりは遥かに能力は上だ。
このままでは、最終的には公爵に衣装ダンスの中に引っ張り込まれるか、グリアモスに衣装ダンスの中に追い込まれるかの二択しかない。
(この世界でも、瞬間移動が使えたらいいのに……)
七都は思ったが、それもまた虚しい願いだった。
このまま……このまま自分は、向こう側に連れて行かれるしかないのか?
けれども、そうしたほうが、よくはないだろうか?
一旦彼らにおとなしく従って、向こう側に着いてから逃げる算段を考えたほうが得策なのでは……。
向こうの世界で公爵の魔力が増すことは間違いはないが、自分もまた魔力は使えるようになる。馬鹿力もだ。
そして、向こうには側近たちがいる。シャルディンも、カーラジルトも。
親しい魔王たちだっている。ナイジェル、アーデリーズ、ジエルフォート。キディアスも、黙ってはいないだろう。
そして、ゼフィーア。セレウスも……。
あるいは、あの二人は別の行動を取るだろうか?
じり、と公爵が七都に近づいた。
グリアモスも、次第に七都との距離を縮めてくる。いらつくほどに、その尾を振りながら。
公爵は、手に何か折りたたんだ長い紐のようなものを持っている。
それが鞭であることに気づいて、七都は愕然とした。
(わたしにそれを使おうというの? 私が魔王リシュフィンの娘だとわかっていて?)
「断っておきますが、こういったものは私の趣味ではありません。このアヌヴィムの武器のコレクションの一部ですので」
公爵が、肩をすくめて見せる。
「いったい、何から身を守ろうとしたのでしょうねえ」
七都は、目を閉じた。
やはり、見苦しく抵抗するよりは、このまま毅然とした態度で彼らに連れて行かれたほうが、ましなのではないか?
そのほうが、王族の姫君の振る舞いとしては正しいのでは……。
鞭を使って従属させられるなど、何という屈辱。結果が同じなら、誇り高く捕らえられたほうが、まだいい。
「七都どの。私も、こういうものは使いたくはないですよ。私にこれを使わせないでいただきたい。我々と一緒に、おとなしく来ていただけますね?」
公爵が、やさしく訊ねた。
グリアモスも楽しげに、けれども、注意深く七都の様子を窺っている。見えなくとも、それはよくわかった。
仕方がない。悔しいけど、今は観念しよう……。今は。
七都はあきらめ、返事をするために目を開ける。
「まさか、そんな……」
グリアモスが、ぼそりと呟いた。
揺らめいていたその尾は、今は宙にぴたりと止まっている。
大きく見開かれた血のような色の目は、天井のあたりをうつろにさまよった。
怯えている? 何かに?
七都は、その目の中に、グリアモスの狼狽と恐れを感じ取る。
「どうした?」
公爵は鞭を握りしめたまま、怪訝そうな顔をグリアモスに向けた。
「あり得ません。なぜあれが、ここに……!?」
グリアモスの目が、恐怖でさらに見開かれる。
パシ!!!
窓ガラスが砕け散った。
落ちて行くガラスの欠片を通り抜けるようにして、窓から黒い影が飛び込んでくる。
影は、あたりの様子を慎重に探るかのように床にうずくまったが、敏捷に立ち上がった。
(人……?)
七都もまた唖然として、その黒い影を眺める。
グリアモスが毛を逆立て、その影に向き直った。
影はグリアモスに気づくと、オレンジ色の細長い光を自らの中から取り出した。
その光が金色の輝きを増して素早く動いた途端、グリアモスの輪郭が崩れ、忽ち黒い粉塵となる。
グリアモスは声を発することもなく、七都と公爵の前から消滅した。
オレンジ色のその光。
七都には見覚えのあるものだった。
向こうの世界で何度も関わり、何度も破壊したもの。
何代か前の風の魔王の名が付いた、その武器――。
「エヴァンレットの剣……!?」
公爵が呟いた。
「ユード!」
七都もまた、その黒い影の正体を認め、その名前を叫ぶ。
「こんなところで剣が光るので来てみたが……。やはりあんた絡みか」
ユードが、七都に向かって言った。
黒いマントに、輝くエヴァンレットの剣。
透明な灰色の目を持つ、長身の魔神狩人。
七都は、彼の姿と彼の声に安堵する。
向こうの世界では恐ろしい目に遭わされた人物だったが、今の七都にはありがたい存在だった。
つい先ほど別れたばかりだというのに、奇妙な懐かしささえ感じてしまう。
そして七都は、彼が自分を助けるためにこの家に来てくれたわけではなく、剣が反応したためにここに来たことを知って、少し残念に思った。
「魔神狩人か? この世界にもいるのだな」
公爵が、ユードをじろじろと眺めて言った。
「私は、このお嬢様についてきただけだ。すぐに元の場所に戻る」
ユードは答えたが、公爵を見て眉を寄せた。
「セレウス? いや、他人の空似か」
「この家にその剣を持ち込むとは……。許さぬぞ、魔神狩人!」
公爵が、忌々しげにエヴァンレットの剣を睨んだ。
「これを呼んだのは、そちらのほうだろう」
ユードが呟き、剣を持つ手をすっと伸ばした。
キャビネットに飾られていた金の髪が、剣の光に反応して煙を上げ、どろどろと溶け落ちる。
髪は跡形もなく消え去り、ロケットペンダントの中は空洞となった。
公爵は、それを恐怖の宿った目つきで凝視する。
「ふざけた装飾品にしていたのは、おまえの髪か? では次は、本体の番だな」
ユードは剣を構え、ゆっくりと公爵に近づいた。
金色に輝いていた剣は、銀色に変化した。けれども、すぐにまた金色に戻り、また銀色へと変わる。
ユードは剣の奇妙な光り方に、眉を寄せた。
「待って!!」
七都は両手を広げ、ユードと公爵が対峙している、その真ん中に割り込んだ。
ユードは動きをぴたりと止め、七都を見下ろす。
「この人は、中身は魔貴族だけど、本来はアヌヴィム、人間なの! 」
七都はユードの前に立ちふさがったまま、彼に説明した。
「このセレウスに似た男は、魔神族に体を乗っ取られているのだろう? 私は、少なくとも魔神になりたてのあんたよりは、魔神族との関わりは長いのだからな。そのことに気づかないとでも思ったのか?」
ユードが、そっけなく言った。
「あ、何だ、知ってたんだ。剣がおかしなふうに光ってるものね。じゃ、どうするの? もちろん人間を傷つけたりはしないよね?」
「こうしましょうか、姫君」
公爵の声が、耳元で聞こえた。
何か冷たい銀色のものが、喉にぴたりと当てられるのを七都は感じる。
腰には公爵の手がしっかりと回され、身動きが出来なかった。
冷たい銀色のもの。それは、公爵の手元から長く伸びていた。
七都は、顔を固定させたまま、目だけを動かして、それをさっと眺める。
うねうねと波打つ刀紋。緩やかな弧を描くその形。
丁寧に手入れされたその美しい武器の表面は、七都の顔がはっきりと映し出されるくらいに涼やかに澄んでいた。
テレビや映画では、その贋物をよく見る。本物は博物館のガラスケースの中で何度か見た。
(日本刀……?)