第3章 洋館の魔神たち 10
「家族……。二十年少し前って言ったよね、そのアヌヴィムの魔女の人とのこと。あなたにとても似てる人を知ってるんだけど……。その人の歳、今、二十代前半くらいだ。その人は今、アヌヴィムの魔女と……。全然関係ないよね?」
七都は、彼に訊ねた。
声が震えているのが自分でもわかる。
それは、彼を初めて門の前で見てから、ずっと抱いていた疑問だった。
なぜ、こんなにも似ているのだ?
その笑顔も、横顔も、切なそうな表情も、何げなく立っているポーズまでも。
それが、ディートリヒの体を乗っ取った魔神族の容姿をそのまま映しているのだとしたら。
いや、それは先走りすぎた妄想だ。彼らに対して、とても失礼なことだ。
だが――。
まさか……。
まさか?
「そういう仮定がないわけではないですね。そのアヌヴィムの少女は、やがて子供を身籠り、実家に帰って生みました。しかし、父親が誰かということはわかりません。訊ねたのですが、はっきりとした答えは返ってきませんでしたよ」
「……!!!」
七都は思わず彼に近づき、目を大きく見開いて、彼をじっと眺めた。七都がよく知っているある人物とよく似た、その魔貴族の顔を。
髪の色や目の色、性格も全く違うが、同じ顔かたちを持つ、アヌヴィムの魔法使い。
扉の向こうの異世界の町に、アヌヴィムの魔女である姉と共に住む。
そして、彼も彼の姉も、赤い髪に緑の目をしている……。
(そんな……。そんなことって……)
「おや。それほどまでに熱心に見つめてくださるとは。やっとその気になられたのですか、姫君?」
彼が、にやっと笑って言った。
七都は、弾かれたように彼から離れる。
「その子供の父親って……あなたなの?」
七都が訊ねると、彼は困ったように首をかしげた。
「さあ? 彼女は、肯定はしませんでしたから」
「否定もしなかったんでしょ?」
「まあ、そうですが。もっとも、私を癒してくれた後、やはり主人の命令で何人もの男を相手にしたようですからね。彼女自身にもわからなかったのかもしれません」
無性に怒りがこみあげてくる。
一人の女性が身籠って子供を生んだというのに。一人の人間が生まれたというのに。そしてその女性は、当然そのことで大きく運命が変わっただろうに。
父親かもしれない男たちにとっては、全く関知しない出来事なのだ。彼女とのことは、単に、癒しとして提供される軽いサービスでしかなかった。
そして、その女性は……その子供は、七都がよく知る人物たちかもしれない。
「その少女の……名前は……?」
七都がためらいがちに訊ねると、彼は、ふっと意味ありげに意地悪っぽく笑う。
「私の口から聞きたいですか? その子供……男の子でしたが、その子の名前も知っていますよ。彼もまた、アヌヴィムの魔法使いになったとか。その名前もついでに……。あなたもよくご存知の名前でしょうけど」
「……いい」
七都は、首を振った。
確かめるまでもない。彼の態度から、もう答えは明らかだ。
直接彼から答えを聞いてどうするというのだ?
この男の唇が、自分のよく知っている二人のアヌヴィムの名前を発するのを聞いて、確認する必要が今さらあるだろうか?
「まあ、彼らのことなど、どうでもいい。それより、あなたのお返事をまだ聞いていませんでしたよね」
彼が言った。
「返事?」
「私と一緒に、あちらに……いえ、あなたが本来いるべき世界に戻っていただけるかどうか、ということですよ」
「あなたの妃としてでしょ? 絶対に嫌だ!」
七都が叫ぶと、彼はおかしそうに笑った。
「拒否されると、ますますあなたへの思いが燃え上がりますね」
「燃え上がらなくてもいい。ディートリヒが、さっきおかしなこと言ってたけど、あれは彼の妄想じゃないよね。彼の知識と記憶があなたと同じなら。私を妃にして、自分が風の魔王になるとかなんとか」
「妄想ではなく、筋の通った考えだと思いますよ。アヌヴィムにしては上出来だ。私が単独で風の魔王の冠を取り戻してもいいのですが、あなたを妃に伴うと、さらに理由が正当化されるということです」
「そもそも、それがおかしい。風の魔王の冠を取り戻す? あなたが風の魔王になるってこと? そこから間違ってるよ。ディートリヒにも言ったけど、風の魔王の継承権を持っているのは……」
「あなたとルーアン以外でも、風の魔王になれるということですよ」
彼が言った。
「納得できない」
「あなたもルーアンも、次期リシュフィンにはなりたくないらしいではないですか。ならば、いっそ私に譲ってほしいものですね。そうすれば、すべてが丸く収まるというのに」
「丸く収まらない。ルーアンから、そんな人がいるなんて話、聞いたことない! このまま、わたしを家に帰しなさい。あなたの正体を確かめるから」
「それは謹んでお断り致します。確かめずとも、私が詳しく教えてさしあげますよ。私が何者なのか。ルーアンが私にどんな仕打ちをしたのかを」
彼が、魅惑的に微笑んだ。
「取り急ぎ、あなたのお住まいを整えなければなりませんね。現在、ちょっと私は取り込んでいましてね。あなたと直接触れ合うことは出来ぬ状況なのです。なに、また誰か元気のいい若者を見繕って、アヌヴィムにすればいい。それをあなたの近くに住まわせましょう。そうすれば、私はいつでもそのアヌヴィムを通して、あなたの元に参上できますしね」
「ずっと取り込んでればいいよ。わたしの住まいなんて整えなくていいし。お構いなく」
「いえいえ。私にとっても、あなたの存在は頼もしくなりそうですよ。あなたを得れば、きっと私はもっと先に進めそうな気がします」
彼が、ずずっと七都ににじり寄った。
七都は、さらに後ろに下がる。
「先って、あまりいいところじゃないような気がするんだけど。わたしにとっても、風の王族全体にとっても。もちろん、あなたにとってもね」
「少なくとも私にとっては、たどりつくべき場所ですよ。そこに行くことを糧に、今までかろうじて生きてきたのですから」
彼が、七都に向かって手を伸ばしかける。
七都は、その手をぴしゃりとはたいた。
「あのね。どこの公爵さまだか知らないけど、わたしに妙なことしたら、あなたのところの魔王さまとうちの魔王さまの間にトラブルが起こっちゃうから!」
「大丈夫です。既成事実を作ればいいわけですからね。あなたのおばあさまのように」
「何でわたしのおばあさまが、ここで登場するわけ?」
七都は、くわっと口を開ける。
「人間でありながら、魔王に取り入って魔王の子供、つまりあなたの母上を身ごもった。それゆえ、あなたのおばあさまは、人間でありながら王妃の地位が約束されたのですからね」
「取り入ってない思う」
七都は、彼を睨んだ。
沸き上る怒りを、七都は拳を握って押しとどめた。
「何も知らないくせに、おばあさまのことを悪く言わないで」
「でなければ、なぜ魔王リシュフィンが、ただの人間であったあなたのおばあさまと出会ってしまうのですかね」
「ルーアンに聞いたらいい。おばあさまを魔の領域に連れて行ったのは、ルーアンっぽいから」
「やはりルーアンですか。彼の策略だったのですね」
彼は、ぐいと七都の腕をつかんだ。
同時に衣装ダンスの扉が、再び大きな音をたてて開く。
七都は、扉が開け放たれたタンスをじっと眺めた。
四角く恐ろしい化け物が、口をいっぱいに開けたように思えた。
「では、参りましょうか。話の続きは、あちらの世界でゆっくりと。この体では、あちらにあなたをお連れするには心もとないが、まだしばらくは持つでしょう。あなたが身を寄せる場所を探す間くらいはね」
「私に触らないで!!」
七都は叫んだが、彼の指は、七都の腕にしっかりと食い込んでいた。
セレウスによく似た、形のいい、華奢な指――。
おそらく、彼と血が濃く繋がっている手。
七都は、それを見下ろした。胸が締めつけられるようだ。
この指を腕から剥がさなきゃ。
剥がせたら、間髪入れず窓に飛び込もう。
ガラスで多少怪我をするかもしれないけど、そんなこと構っていられない……。
だが、七都が指をつかむと、彼のもう片方の手が七都の肩に回ってきた。
それは七都の体を押さえつけて抱きかかえ、大きく口を開けた衣装ダンスの中に七都を引きずり込もうとする。
「触るなって、言ったでしょ!!」
七都は、肘を勢いよく彼の鳩尾に埋め込ませた。
それから素早く体の向きを変え、足を曲げる。
七都が足を伸ばして蹴りこむと、彼の体は簡単に壁際へと叩きつけられた。
(あれれ。やりすぎちゃったかな。こっちでは馬鹿力じゃないはずなのに)
七都は、ちらっと後悔したが、その必要はないようだった。
壁際にうずくまった彼は、すぐに起き上がり、体勢を立て直す。
(病人なのに、魔神族の魔力で操られ、無理やり動かされてる。何て気の毒なんだろ……)
けれども、ディートリヒに同情している場合ではない。
さっさとこの異人館から出なければ。
外に出れば、見張り人たちに発見されて、助けてもらえる可能性もある。
彼らはこの周辺にいるはずなのだから。
七都は、窓に向かって突進した。
だが――。
七都と窓の間に巨大な猫の黒い影が、ふわりと現れる。
血のような色の二つの目。
グリアモスだった。