第3章 洋館の魔神たち 9
「タンスの中から出てきたのは、魔神族の意識か……」
七都が呟くと、彼は満足げに大きく頷いた。
「さすがですね、七都どの。ご存知でしたか。いや、あなたもこういうことがお出来になるのでしたっけね。魔の領域から、遠くアヌヴィムたちの住む人間の町まで意識を飛ばしたとか。人間の体にも乗り移ったのでしょう?」
(この人……。そういうことまで知ってるの?)
自分は全く相手のことを知らないのに、相手は自分のことをよく知っている。しかもその相手は、普通の人間ではない。
この上ないくらいに気味が悪く、嫌な気分だった。
七都は、彼を注意深く見据えながら、窓までの距離を推測してみる。
彼を蹴り倒し、その間に窓を破って逃げることは出来るだろうか。
両足で体重をかけて思いっきり蹴って、それから素早く体勢を立て直し、窓に突進する。
七都は、幾つかの逃走パターンを頭の中で巡らせた。
そして、そうしながら相手に探りを入れてみる。
「あなたは魔貴族? そんな感じがするけど?」
彼の名は、確かにディートリヒ・アンデルス。ドイツ人だ。
さっきまで――衣装ダンスの扉が開くまでは。
けれども、今、彼はディートリヒではない。確かに体はディートリヒだが、その中身はディートリヒ自身ではない。
彼の中にいるのは、扉の向こう側からやってきた魔神族。恐らく七都の知らない魔貴族だ。
それは、カーラジルトが七都に剣を教えるために行った魔力の術。そして、七都が幽体離脱をしてさまよっているとき、シャルディンの妹の孫娘に無意識にしてしまったこと。さらには、七都の母の美羽が、父を目の前にして思わず七都にしたこと――。意識を他人の体に移し、その人物を意のままに動かすという魔力に違いなかった。
ディートリヒ・アンデルスがいきなり変化したのは、そのためだろう。
魔貴族の意識に乗っ取られ、魔力の作用によって、元々の虚弱なディートリヒの体は若返り、力のみなぎるものとなった。金髪が染めたように見えないのも、向こう側の世界にいる魔貴族の髪を魔力で映しているからにほかならない。
キャビネットの中にあったのも、恐らくその魔貴族の髪。
髪を道しるべに、向こうの世界の本体から意識を飛ばして来たのだ。七都が、セレウスの持っている自分の髪に導かれ、彼の館を探し当てたように。
魔貴族はそうやって、ずっとディートリヒ・アンデルスの体を自由に使ってきたのだろう。
だからこそ、グリアモスが人間であるディートリヒに仕えているのだ。厳密にはディートリヒではなく、彼の体を乗っ取っている魔貴族に。
そして、常に魔貴族の意識に侵食されていたディートリヒは、自分を見失うことを怖れ、名前をあの小さなノートに繰り返し書き綴った。
家族の写真立てを枕元にたくさん置いたのも、彼自身の意識と記憶を守るため。彼なりの小さな抵抗だったのだ。
「一応、『公爵』とだけ言っておきましょうか、姫君。ご明察どおり、この人間の男は私のアヌヴィム。私のこの世界での依り代です。あなたはディートリヒなどと呼んでおられたようだが、ここでは全く意味のないことですよ。この男の名前も記憶も過去も、すべて不用のものです」
ディートリヒの中にいる魔貴族は微笑み、ゆっくりとお辞儀をした。
ルーアンが七都に対してする挨拶と同じだった。魔貴族が、自分より身分の高い女性に対して行う挨拶だ。
だがもちろん、ルーアンのほうがはるかに丁寧で、心がこもっていた。
「公爵? ルーアンと一緒の爵位だ」
七都が呟くと、彼は、たちまち微笑みを消滅させ、ぎろりと七都を睨んだ。
ルーアンと一緒だと言われたことがお気に召さなかったらしい。
「そうですね。王族以外でいちばん身分の高いのがそれですから」
彼が、憮然とした顔つきで言った。
では彼は、いずれかの魔王に近しい者なのだろうか? ルーアンのように? では、いったい誰の?
だが、ディートリヒはさっき、次のリュシフィンになるなどと口走ったのだ。
いったいどういう人物なのだ? それとも、あれはディートリヒの妄想だったのか?
「どこの一族? 風の魔神族ではないよね? 悪いけど、わたし、あなたのこと知らないもの。たぶん聞いたこともないと思うよ」
「それは残念ですね。まあ、知る必要もないでしょうしね。私の名前を申し上げても、あなたはご存知ないでしょう」
「でも、あなたはわたしのこと知ってるんだよね? わたしの母のことも。それから、ルーアンのことも。ディートリヒが知ってたってことは、本体であるあなたも、当然」
「もちろんです。あなたが生まれるずっと前から、お二人のことは知っていますよ。このアヌヴィムの知識は、本来は私のもの。長期に渡ってこの男の体を使っていたゆえ、私の記憶や知識も、この男の中に残ってしまったのです」
彼が機嫌よく頷いて見せる。
「あなたは、何でこんなところにいるの? この家にアヌヴィムを住まわせたのは、わたしたちを見張るため? この近所にわたしの家があること、知ってるよね?」
七都が訊ねると、彼はあきれたように首を振った。
「めっそうもない。そういう、いわゆるストーカーみたいな真似は、趣味ではありませんね。偶然ですよ。第一ここに来たのは、あなたの母上よりも我々のほうが先です。このあたりは、あちらの世界と接する次元の壁が薄いのですよ。だから、他の場所よりも簡単に行き来しやすいのです。通路を作るには最適の土地。単にそういう理由です。あなたの母上がこの地域を選ばれて家を建て、扉を作られたのも、同じ理由でしょう」
「それで、タンスを入口に? 洋服ダンスの中に異世界への道があるなんて、笑っちゃうよ。子供向けのファンタジーじゃあるまいし」
七都が皮肉っぽく呟くと、彼は微笑む。
「この男の記憶の中にそういうストーリーのかけらがあったので、作ってみたのですよ。少なくとも、あなたのおうちみたいに、シンプルに扉だけというよりは、おもしろいでしょう」
七都は、憤懣に進化しそうになる不快感を冷静に押しこめる。
それはつまり、お母さんのセンスが今一つってことを言たいわけ?
「あなたの名前を教えて。公爵だけじゃ物足りない」
彼がルーアンのことを知っているなら、ルーアンも彼のことを知っているはず。
それも、たぶんよく知っているはずだ。
ここから逃げ出したら、すぐに向こう側へ行ってルーアンに聞こう。それで謎が解ける。
「そうですねえ。お教えしてもいいですよ。私と一緒にタンスの中に入っていただければね」
彼が、再び微笑んだ。
「一緒にタンスの中に? 何でよ?」
「もちろん、私と一緒にあちらに来ていただくのですよ。お越し願えますか? あなたがどういうふうに魔神族に変わられるのか、とても楽しみです」
「冗談でしょ。……あ!!」
七都が気づいて叫んだとき、既に体の後ろにはベッドカバーの感触があった。
顔の真上には彼の顔があり、彼の両手が七都の肩を押さえつけていた。
中身は魔神族なのに、その体が人間ゆえに感じる体温。
汚らわしいくらいに不快な感覚だった。
落ち着かなければ。
相手が魔王に近い血筋の魔貴族だったら、まかり間違えば、一族間のトラブルに発展してしまう。
七都は彼を睨みながら、慎重に膝を曲げる。
「離しなさい。どういうつもり?」
「せっかくグリアモスがあなたを連れて来てくれましたからね。私への捧げ物として。その気持ちに答えてやるのも、また一興かと。ここで今からあなたを私の妃とし、連れ帰るのも悪くはない」
彼は、改めて七都の体を眺め回した。
七都の背中にぞくっとする悪寒が走る。
「えーと。それはつまり、わたしに印をつけるとか、そういうことかな」
七都が訊ねると、彼は口角を僅かに上げて頷いた。
「おかしなことを。言っとくけど、それ、物理的に無理だからね。あなたの体は魔神族じゃないし、今のわたしも魔神族じゃないんだから」
彼は、七都の真上でにっこりと笑う。
思わず平手打ちをしたくなるような、嫌悪感あふれる笑い方だった。
「そうですね。あなたにしても、いくら中身が私とはいえ、アヌヴィムと交わりたくはないでしょうからねえ。でも、体はお互いこの世界の男女なわけですから、物理的には問題はないですよね?」
七都の全身に鳥肌が立つ。
膝は充分曲げている。
隙を見て、蹴りを入れよう。
その前に、何らかの魔力を使えないものだろうか。体感温度を下げるとかじゃなく、何か相手にダメージを与えられるものを。
けれども、向こうの世界でもコントロールできない魔力が、こちらでおいそれと使えるわけもない。
「だが、まあ、無理ですね。誠に遺憾ながら。この体にはもう、そういうことが出来るくらいの元気はありませんので」
彼が、あきらめたように溜め息をついて、言った。
「外見は、このように若いのですけどね。歳を取りすぎました。それに、この男、私が中にいない間も私に似るようにと、自ら容姿を変えたのです。整形手術を必要以上に何度も繰り返してね。その反動もあって、かなりのポンコツです。常に安静にしていなければならないくらいに酷い状態になってしまった。私も、この異世界では思うように魔力を使えませんし。遠隔操作でこの男の命をこの先長く保つのは、非常に難しい」
「そうなったのは、あなたがその人の体をさんざん使い尽くしてきたからっていう理由のほうが大きくない?」
七都が言うと、その公爵は、ふっと魅力的に笑った。
その笑顔の端々によく知っている若者と同じものを見つけて、七都は、やりきれなさとおぞましさを感じてしまう。
「ま、そうかもしれませんね。しかし、それがこの男との取引でしたから。この人間の男は、魔神族になりたかったのです。それも、身分の高い魔貴族にね。だから、望みをかなえてやった。この男は、魔神族が関わる場所では、私として扱われた。かなり長い期間、公爵としてちやほやされたはずですよ。本望でしょう」
「愚かとしか……ううん、気の毒としか言いようがない」
「では、その愚かで気の毒な老人に、足蹴りを見舞うのはお控えいただきたいものですね、姫君」
七都は、膝を硬直させる。
見抜かれていた? 足蹴りの準備をしていたことを。
「じゃあ、足蹴りをされるようなことをしようとするのをやめれば? この体勢で話をしたくないんだけど。何で魔貴族の公爵と王族の姫が、こういう状況で話をしなきゃならないのかしら?」
「これは失礼を。私には、魅惑的な体勢でしたがね」
彼は笑って、七都の肩を押さえていた両手を離した。
七都は、ほっとする。緊張が解け、全身から力が抜けた。
取りあえず、危機的状況は回避だ。けれども、油断は出来ない。
彼は、ベッドの縁に腰をかけた。長時間立つことは無理らしい。先程からディートリヒは立ちっぱなしだったので、疲れたのかもしれなかった。
七都は体を起こし、ベッドの上に座る。もちろん、彼とは少し離れた位置まで下がった。
「これでも、この男の体は、もう少し若い頃は割と便利に使えましたよ。二十年少しくらい前まではね。見張り人の目を欺いて、向こうの世界と行き来していましたし。魔神族の女性はさすがに遠慮しましたが、アヌヴィムとなら、楽しい時間を過ごしました」
何を話し始めるんだ、この魔公爵は!
七都は、彼を睨んだ。不愉快にもほどがある。
若い女性にその手の話をして喜ぶエロ老人みたいなノリなのだろうか。
「あなたがその乗っ取った体を使って、アヌヴィムの女の子を騙した自慢話なんて聞きたくもないからね」
「人聞きの悪い。騙したのではありませんよ。言わば合意の上です。彼女の主人の命令でね。赤い髪に緑の目の美しい少女でしたね。私が初めての相手のようでした。この体であんなに癒されたのは、あれが最初で最後ですね。この男も、しばしの間とはいえ、癒されたはず」
彼が、昔を懐かしむように言う。
(赤い髪に緑の目……?)
「その少女は、そういう苛酷な命令に服従してまで、アヌヴィムの魔女になりたかったということです」
七都は、彼の顔をまじまじと見上げた。
「その赤い髪と緑の目のアヌヴィムの少女って……どうなったの?」
「彼女のかねてよりの望みどおり、魔女になりました。今は家族と平和に、そして裕福に暮らしているようですね」
彼が答える。