第3章 洋館の魔神たち 8
衣装ダンスの奥に広がる世界。
それは、七都がよく知っている、<扉の向こう側の世界>に間違いはなかった。
そこにある、紺色の空。それは、夜の空の色。
もうすっかり見慣れた、その色合い、深み。その空の下を旅し、数え切れないくらいの回数を見上げた空の色。
昼の魔の領域では、それは美しいラベンダー色になる。
そこは、木々がそよぎ、風が渡る静かな世界。こちら側のざわめきも汚れも存在しない世界。だが、魔法や吸血鬼が生きる美しい世界だ。
衣装ダンスの扉は、開け放たれたまま、その世界の景色を中に映していた。
やがて扉は、誰かに合図をされたかのように、いきなり閉まる。やはり、バタンという大げさな音をたてて。
「え……?」
七都は、衣装ダンスの前に立ち尽くした。両手足をガムテープで縛られたままであることも忘れるくらい、呆然と。
タンスの中からは、何も出てこなかった。
魔神族の主人も、グリアモスもアヌヴィムも。
向こう側の世界のものは、何も。
けれども、扉はそのまま閉まってしまったのだ。
(どういうこと?)
くっ。
誰かが、笑ったような気がした。
おもしろくてたまらないのを、無理やり押し殺すような笑い声だった。
くくっ。
空耳ではないようだ。
部屋には、七都と、もうひとりしかいない。笑うとしたら――。
嫌な予感がした。とても嫌な感じだ。
七都は仕方なく、声がしたほうを振り向く。
そこにはもちろん、ディートリヒ・アンデルスがいた。
相変わらず俯いたまま、写真立てを眺めている。
モノクロの写真の中では、二人の人物が微笑みながら、彼を見上げていた。
「ディートリヒ……さん?」
七都は、彼に声をかけた。
答えはない。
「ディートリヒ……」
彼に近づこうとした七都は、そのまま身を固くする。
違う――。
今までの彼じゃない――。
ピシ!
彼が手に持っていた写真立てのガラスに、放射状のひびが入る。
たちまちガラスは粉々に砕け、耳障りな音をたてて、絨毯の上に散らばった。
彼がわざとらしく手のひらを広げると、写真立ては微笑む二人の人物をその中に閉じ込めたまま、ボトリと床に落ちてしまう。
彼の手には、赤い線が一筋入っていた。
割れたガラスで切ったらしい。赤い線からは、幾筋もの血が滴り落ちる。
けれども彼は慌てる様子もなく、その傷をしげしげと見下ろした。どこかおもしろがっている様子だった。
「あなたは誰?」
七都は、彼に鋭く質問した。
彼は、にやりと笑って、七都のほうを向く。
そこにいる人物は、やはり今までのディートリヒ・アンデルスではなかった。
外見の割にはどこか老けていた彼の顔は、確かに若々しくなっていた。
肌は青白いままだったが、その表面には張りが現れ、ぱさぱさだった髪は、輝くくらいに艶めいている。
そして、それまで薄いブルーだった目は、ティールグリーン――青味がかった深い緑色に変わっていた。
(魔神族?)
七都が彼に感じていた<人間>としてのアイテムが、ことごとく消滅していた。
自信のなさそうな、けれども我を貫こうとする強がり、限られた短い命を持つゆえの儚さ、そして確かな体温。
その替わりに、今の彼に否応なく感じてしまうのは、<魔神族>そのものの雰囲気だった。
その堂々とした立ち居姿、目つき、口元にたたえた薄い微笑み、全身から匂い立つようなオーラのようなもの。
どれを取っても、魔神族のものだ。それも、鼻持ちならない魔貴族のもの。
そして七都は、キャビネットのペンダントの中に収められている髪が、彼の髪であることに気づいた。
今までの彼の髪ではない。今の彼の髪だ。
色も艶も輝きも、ペンダントの髪と同じだった。
そして、彼の髪は、染めているのではない。本物の金髪だ。色も艶も輝きも、全部彼がそもそも持っているもの。
おかしなことだが、七都はそう確信した。
彼は、自分の手に伝うように流れていた血を、これみよがしに舌を出して、ゆっくりと舐めた。
七都は、その品のない醜悪な仕草に顔をしかめる。
「まずいですね。まあ、仕方がないですが」
彼が言った。
声はそれまでの彼と同じだったが、そのトーンや張り具合は変わっていた。
そうだ。いきなり元気になっている。
もう彼を見ても、誰も病人だとは思うまい。
彼が自分の手を不快そうに見つめた途端、そこから血の赤は消え失せた。
もちろん、写真立てのガラスで切った傷もなくなっている。
「また趣味の悪い、安っぽいもので縛られましたね」
彼は、七都の頭の天辺から足の爪先までを興味深げに眺め、小馬鹿にしたように言った。
七都はますます顔をしかめたが、突然、体が自由になる。
七都の手足をねっとりと固めていたガムテープは、どこにもなかった。
「私も、こちらでは多少魔力が使えるのですよ。私のグリアモスが失礼なことをしました、姫君。お詫び致します」
彼が言った。
けれども、それはキディアスも顔負けの慇懃無礼さだった。
「あなたは誰なの? 魔神族? アヌヴィム? それとも、人間?」
「私が人間に見えますか、七都どの?」
彼が、にっこりと笑う。天使のような微笑みだった。
「今まで人間だったでしょ? そのタンスの扉が開くまでは!」
七都が言うと、彼は白々しく驚いて見せる。
「おお、大変だ。ということは、タンスの扉が開いて、私は魔神族になったということですかね。ふふ。当たってますよ、七都どの。つまり、そういうことです」
「そういうことって、どういうことよ? タンスは開いたけど、そのまま閉まったよ」
七都は、彼を睨む。
彼が困ったように、首をかしげて見せた。
「本当に、そのまま閉まったんですかね? 中から、目に見えない何かが出てきたのだとしたら?」
七都の背中で、冷たい汗が伝って落ちる。
そうだ。あの術だ。あれを使ってるんだ。
この人は、人間でもあり、魔神族でもある――。
そういうことだったんだ、彼の言うとおり。
七都は、その時、やっと理解する。
目の前に立っている謎の青年の正体を。
もちろん、名前や素性やルーアンとの関わりなどの細かいことは不明だが、大雑把な分類として何であるかは、はっきりとわかったのだった。