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第1章 向こう側からの来訪者 1

 誰かが、やさしく頭を撫でてくれていた。

 大きく、あたたかい手。

 時々、遠慮がちに指が額や頬に触れる。

 大切な何かにそっと触るように。何かを確かめるように。

 これは誰の手だろう。


 ナイジェルかな?

 また風の都に来てくれたの?

 アーデリーズ?

 わたしは地の都にいるのだろうか。

 それとも……お母さん?


 しかし、その手の体温は魔神族のものではなかった。

 芯まで熱い、人間の手。包み込むような、心地のいい体温の手だ。

 そして、ナイジェルのような、どこか華奢な少年の手ではなく、もっと大人の男性の、大きく力強い手。


 わたし、今どこにいるのだろう。

 ここはどこなんだろう……?


 七都は目を開けた。


 真正面に父の顔が見える。

 央人は、じっと七都を見下ろしていた。

 こんな表情の父を七都は見たことがなかった。

 少し眉を寄せ、どこか思い詰めたような。

 ちょっぴり怖いような雰囲気だった。

 七都の知らない何かを晒し出したような、近寄りがたい気配の顔。


 七都が目覚めたことを知ると、央人はさらに七都の顔を覗き込んだ。

 七都は、自分の右手が父の手に、痛みを感じるくらいにしっかりと握られていることに気づく。


(痛いよ、お父さん。そんなに強く握ったら)


 痛い。

 痛い……?

 ああ、よかった。人間に戻ってる。

 じゃあ、扉を無事に抜けられたんだ。

 向こうの世界から帰ってきたんだよね?


 眠りに就く前の記憶が、凄まじいスピードで蘇って来る。

 

 今回は、すんなりと姿を現してくれた、二つの世界を繋ぐ緑の扉。

 見送ってくれた側近たち。シャルディンにカーラジルト。ゼフィーアにセレウス。

 黒い招き猫を抱えた、美少年の姿のナチグロ=ロビン。

 自分はストーフィを抱いて扉を開け、そして――。


「美羽……?」


 央人が小さく呟いた。


(そうだ、お母さんは? お母さん……?)

 

 七都は再び目を閉じ、静かに自分の内部に耳をすませてみた。

 何も感じない。

 母はいなかった。

 こちら側への扉の前で、いきなり七都の体を乗っ取った母。

 そして、七都の体を使って父に激しく抱きつき、涙を流した母……。


(いない……。そうだよね。お母さん、こちらには来られないよね。あれが、お母さんの精一杯だったんだ……)


 七都は、目を開けた。

 父の心配そうな顔が真正面に見える。

 けれども、その表情には期待と緊張感が溢れていた。


 父が待っているのは……。

 当然そうだろう。

 あんなことがあった後では。


「ごめんね……」


 七都は呟いた。


「え?」と、央人が目を大きく見開く。


「ごめんなさい、お父さん。わたし、お母さんじゃないの」


 央人の体が、一瞬固まったようだった。

 失望。落胆。裏切られた期待。残念な思い。

 それらの感情を七都は父の中に垣間見た。


 父が待っていたのは、母。美羽だ。

 あの抱擁。確かめ合い。

 央人が向こう側の世界との境界で抱きしめたのは、美羽。

 七都が目覚めると、そこにいるのは娘の七都ではなく、娘の体を借りた美羽であり、その唇から発せられる言葉は、「お父さん」ではなく「ヒロト」のはずだった。


 けれども、それは叶わない夢だ。

 七都は罪悪感にかられた。


 央人の手が、七都の手をそっと離した。

 表情が、いつもの穏やかな父の顔に戻る。

 央人は、再び七都の頭をやさしく撫でた。


「そうだよな。美羽のはずないよな」


 央人が呟いた。


「でも、七都が美羽に見えたんだ」


「わたし、向こうではお母さんそっくりの姿なの。緑がかった長い黒髪に、ワインレッドの目。だから、間違えたんだよ」


「だが。『お父さん』じゃなくて、『ヒロト』って名前で呼ばなかったか?」


 それでも父は食い下がる。失われた何かを探し求めるように。


「空耳だよ。お父さんのこと、名前で呼ぶわけないじゃない」


「しかし……他にも何か喋ってなかったか?」


「風の音だよ。向こうの世界の風が吹き込んだせいだ。女の人のささやきに聞こえたりするもの」


 七都は、言った。


 当然母が喋った言葉は、父の耳に届いたはずだった。

 母は、抱き合ったまま耳元でささやいたのだ。

 聞き取れないはずはなかった。


<あなたに会いたかったの。あなたに、とても会いたかったの……>

<ヒロト……。ずっとずっと、あなたのことを思っていた。ずっと……>


「……」


 央人はしばらく黙り込み、それから大きく溜め息をついた。


「そうだよな。美羽のはずないよな。いくら向こう側の世界が不思議で溢れていたとしても」


「うん。そうだよ」


「七都の体を美羽が乗っ取るはずもないよな。自分の娘の体なんかを。いくらこちらに来るためだとはいえ」


(お母さん、しっかり乗っ取ったんだけどね。お母さんに今のお父さんの言葉を聞かせたいよ)


 七都は、くすっと笑う。


「でも、そうだったらいいなって、少し思ってしまった。すまない」


 父が言う。本当にすまなさそうな顔をして。


「お母さんが私の体を乗っ取ったら、近親相姦になっちゃうよ」


「そうだな。……なるよな」


 父が真面目な表情をして言う。

 七都は、おもいっきり顔をしかめた。


「お父さんったら。冗談で言ったのに。怖すぎるよっ!」


「すまん……」


 父が苦笑する。


「美羽には会った? 今回は、長く向こうに滞在したようだが」


 父が、再び真面目な顔つきになって訊ねた。

 前回七都がこちら側に帰ってきたときも、父は同じ質問を七都にした。

 それも当たり前のことだろう。

 母は向こうに確実にいるわけだし、七都が行けば接触してくる確率が高いのだ。


 七都は、ゆっくりと顔を振る。

 再び罪悪感が頭をもたげた。

 嘘をつくのは嫌な気分だ。

 けれども、正直に話せば、こちらの世界の大切なものたちが壊れてしまう。


 こちらの生活は守らなければならない。

 向こうのことで破壊されてはたまらない。

 自分の基盤は、この世界なのだから。


「そのうち、きっと会えると思うよ。向こうのどこかにいるんだから」


「そうだな……」


 央人は、自分を納得させるように、再び大きな溜め息をついた。

 それから、気持ちを切り替えるように、明るくにっこりと笑う。


「さ、それじゃ、七都、お腹すいただろ。何か食べるか?」


「もちろんだよ。ロビンはもう『紀州のとれとれマグロ・ムース仕立て』を食べたよね?」


「ああ。さっき三つも食べて、今はソファで寝ているよ。ところで、七都。ちょっと聞きたいんだが」


 央人は、ベッドから体を起こした七都にかがみこむ。

 神妙な顔つきだった。


「なに、お父さん? 改まって」


「きみは……料理できたっけな?」


「料理?」


 いきなり場違いで妙な質問をされて、七都の頭はこんごらかった。

 何でまたこの状況で、そういう質問が出てくるのだ?


「えーと。あまり得意じゃないよ。家庭の実習でも皿洗い係だし。目玉焼きくらいなら……。あと、インスタントラーメン……」


「目玉焼きにインスタントラーメンか。それなら、私でも出来るな」


 七都は、父を睨んだ。


「何でそんなこと聞くの? 私が向こうから帰ったら大食いするから? 果林さん、それを見越して、たくさん料理を冷凍しておいてくれてるはずだよ。……そういえば、お父さん、果林さんは?」


 果林さんは、七都と父が抱き合っているところを見ていたのだ。

 びっくりして手に持っていた包丁を落としてしまった。

 その包丁は、彼女の足を傷つけてしまったはずだ。たくさんの血が流れていた。

 手当てをしなければならない。ひどい傷なら医者に連れて行かなければ……。

 いや、それよりも、かなりショックだったはずだ。

 自分の夫が、前妻の名前を呼びながら、娘を抱きしめていた。

 いくらそこに異世界のシュールさが大量にプラスされていたとしても、そのことは事実だったのだから。


「彼女は……出て行ったよ」


 央人が言った。


「えっ。出て行ったって……」


「まあ、無理もない。きみと私があんな状態なのを見てしまったからな」


「あんな状態って。やめてよね、そういう、やらしい表現!」


 七都は口を尖らせ、再び父を睨んだ。


「お父さんがお母さんと間違えて、私に抱きついただけなんだから。でも、そのお父さんの行動が問題だったよね。お母さんの名前、何度も呼んじゃったし」


「やっぱり、まずかっただろうか」


「まずかったに決まってるじゃない。果林さんにとってお母さんは、今では何の関係もないお父さんの前妻なんだから」


「何の関係もない……か」


 央人が、遠くを見るような目つきをして呟く。


「全然思ってないよね」


「そうだな」


 央人は、もう何度目かになる同じ台詞を口にする。


 お父さんって、ほんとにバカ正直なんだから。


 七都は、心の中で溜め息をついた。


 つまり素直すぎるってことなんだろうけどな。

 その素直さが他の人を傷つけてしまうんだよね。


「そもそも、お母さんのことを清算しないで果林さんと結婚したのが間違いだよね。私は果林さんに育ててもらったから、とやかく言えないけどね」


「果林と結婚したことは間違っていたとは思ってないよ」


 央人が言った。


「お父さんと私の生活を守るために、でしょ」


 七都は、皮肉っぽく補足した。


「果林さんは、やっぱり曲がりなりにもお父さんの奥さんなんだからね。あんなことしたら傷つくのは当たり前なんだ。出て行かれても仕方ないよね」


「だが、出ていかれたら非常に困るんだ」


「私も困るよ」


 七都は、何げなく言ってしまってから、自己嫌悪になる。


 やはり父も、そして自分も、何てずるいのだろう。

 果林さんが心配とか気がかりとか、そういうことより、まず「困る」などと思ってしまう。

 彼女のことよりも先に、自分たちの都合を考えている……。

 主婦である彼女がいなかったら、この家が立ち行かない。

 どうするのだ、これから? 

 自分たちは、家事なんて何も出来ないのに?


 七都は、ぶるんと首を振る。


 家事のことなんてどうでもいい。

 今は、彼女の心配をしなければ。


「果林さん、怪我してたでしょ? 足に包丁が……。手当てしたの?」


 七都は、父に訊ねた。

 

「応急処置はしといたよ。血はたくさん出ていたようだが、そんなに深くは刺さってはいない。念のために、朝になったら自分で医者に行くと言っていた。だが、そのまま出て行ってしまった」


「お父さん、果林さんを探したの?」


「心当たりのところには電話をしてみた。実家にも。けれども、果林はいなかった」


「どこに行ったんだろ……」


「取りあえず、ホテルとかじゃないかな。お金は持って出てったようだし」


「お父さん、冷静だよね。そういう観察は出来てるんだ」


 七都は再び皮肉っぽく言ったが、央人は気にもかけない様子で、素直に答える。


「鞄を肩にかけていたからね。独特の目立つ鞄だし」


 果林さんが使っているのは、紫色の地にフリルとレースが付いた、可愛らしい鞄だった。

 少女趣味満開の鞄で、果林さんのお気に入りだ。

 

「そのうち戻ってくるよ。『もう、こんなに散らかして!』とか何とか言いながら」


「そうかな。本当に戻ってくるのかな。かなり傷ついたと思うんだけど」


「きっと戻ってくるよ」


 央人が、どこかのんびりと言った。


「その確信というか、根拠はどこからくるの?」


 七都は、前にシャルディンに訊ねられた台詞をそのまま父に言ってみた。

 今では少し過去になってしまった、シャルディンとの懐かしい言い合いっこを思い出す。

 異世界での出来事は、どことなくまだ夢の中でのことだったような気がする。


<まあ、なんとかなるよ>

<その、なんとかなるという確証は、どこから来ているのですか?>

<なんとなく……>

<なんとなく? 信じがたいです>


「何となく……」


 央人が呟いた。

 答えが自分と全く同じであることに、七都は大きな溜め息をつく。

 ま、親子だもんね。この父にして、私あり、か。


「いや。だてに長年一緒に暮らしていないからね。彼女の性格はだいたい把握してるよ。七都も心配しなくていい。まだ夏休みだし、向こうから帰ったばかりで疲れてるだろうから、ゆっくり過ごせばいいよ」


 七都に、あきれたようにじいっと見つめられ、央人は言い訳するように言った。

 それから央人は、おもむろに立ち上がる。


「さて、私はこれから仕事に行くよ。抜けられない会議が、午後からあるんだ。プレゼンをしなきゃいけなくてね。私が出席しないと、たくさんの人に迷惑がかかってしまう。きみがまだ眠ったままだったら、どうしようかと思案していたんだが……。この家に二人っきりにするのは心配だし。けれど、きみも起きたことだしね。心残りなく、会社に行くことにする」


「二人っきり?」


 七都が首を傾げると、央人は、にやっと笑った。


「まあ、きみの半分は向こうの人間で、今回も向こうの世界でいろいろ切り抜けてきたのだろうし、私が普通の親としての心配は特に何もしなくてはいいのかもしれないのだろうけどね。目玉焼きとラーメン、頑張って作ってくれたまえ」


「目玉焼きとラーメン? 何で作らなきゃいけないの? 果林さんの冷凍食品は?」


「たぶん、もうないよ」


「ない? 何で? まさかロビンが食べちゃった……とか」


「あの化け猫は、向こうから帰った後は『紀州のとれとれマグロ・ムース仕立て』しか食べないよ」


「じゃあ、何でよ?」


 央人は、ただおかしそうに笑うだけだった。


「七都も、結構イケメンくんが好みなんだな。ま、似合ってるよ。いろいろ聞きたいんだが、聞けないしなあ。残念だ」


「は?」


「じゃあな。ちゃんと着替えて下に降りるんだぞ」


 央人はドアの隙間から七都に言った。そして、静かにドアを閉める。


「う、うん?」


 どういうことなんだろ。

 お父さんったら、何か意味ありげにもったいぶって?


 父が出て行くと、部屋の中は静かになった。

 七都は、改めて自分の部屋を眺めてみる。


 いつもと同じ部屋。

 果林さんのおかげで、掃除も行き届いている。

 水玉のカーテンに、チェスト、ポスター。

 いつもと同じ窓からは、いつもと同じ太陽の光が降り注ぐ。

 向こうに行く前と同じ、夏の太陽だ。

 

 お父さんは、まだ夏休みだと言っていた。

 よかった。宿題ほったらかしだから、頑張って片付けなくちゃ。


 ふと壁のほうに視線を移すと、そこにはメーベルルのマントが掛けられていた。

 その横には、幾分くたびれた様相の、ゼフィーアが用意してくれた旅の衣装。

 光の魔王ジエルフォートが作った猫の目ナビも、同じハンガーに掛けられている。

 もちろん、果林さんがしてくれたのだろう。「シュールだわ。でも現実なのよね」とか呟きながら。


 ベッドのフットボードあたりには、銀色の物体があった。

 ストーフィだ。

 ストーフィは、人形のような無造作なポーズで置かれていた。

 足を広げ、頭は、上半身が置かれた通りの角度で傾いている。

 いつも無表情な目からは、さらに表情がなくなり、目の中の光も消えていた。

 ただの、それほど高級そうでもない丸いプラスチックが嵌め込まれたように見える。


 ストーフィは、まったく動かなかった。

 こちらの世界では動けないのか。

 それとも、七都との約束通り、『どこかの雑貨屋さんで買った、猫ロボット』になっていることに徹しているのか。

 七都にはわからなかった。


 ともかくストーフィは、ちゃんとこちら側に連れてくることが出来たのだ。

 七都は、ほっと安堵する。


 母に体を乗っ取られたとき、手から力が抜けて、落としてしまった。

 招き猫を床に置いた記憶はあったが、ストーフィのことは落としたこと以外、記憶がなかった。


 ちょうどドアのところだったから、もしかして落としたところが向こう側だったのかもしれない。

 そして、ストーフィを向こうに残したまま、ドアが閉まってしまったのかもしれない。

 そんな不安があったのだ。


 よかった。

 でも、ドア、誰が閉めてくれたのだろう。

 ナチグロ=ロビンかな。


 七都は、ベッドから床に降りた。

 パジャマを着ている。

 むろん、それも果林さんが着替えさせてくれたのだ。


 まさか、お父さんじゃないよね。

 お父さんには……やっぱり裸は見られたくないな。

 目が覚めたとき、すっごい目つきで私を見てたし。

 娘を見る目じゃなかったよね……。

 七都は、顔をしかめた。


「もう、お母さんったら。あんなことするから、果林さん、家出しちゃったじゃない。わたしの家庭をごたごたさせないでよ。……ったく」


 七都は、呟いた。いや、叫んだ。

 いろんな感情をこめて。

 もちろん、異世界にいる母に聞こえるはずがない。

 なので、遠慮なく、声自体も大きかったかもしれない。


 すると――。


「ごめんなさい……」


 誰かがあやまった。

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