第3章 洋館の魔神たち 4
灯りに照らされた天井が見える。
それは一般の住宅でよく使われている、薄いパネルを張り合わせような簡単なものではなく、年期の入った白い格子が渡る、重厚感の溢れた天井だ。
そして、天井自体が、贅沢すぎるくらいに高かった。
天井と壁の境目の巾木には、蔓草のような彫刻が、うねうねと這っている。
その少し下には、真っ暗な夜の空を映した窓があった。
これもまた、アルミサッシの窓などではなく、重厚な木製の上げ下げ窓。
窓枠は落ち着いたチョコレート色で、白いレースのカーテンが、どこか蜘蛛の巣を思わせるように、ふわりとかけられている。
窓ガラスの向こうには、重なり合う沢山の葉の影が見えた。
これは古い建物の中だ。日本ではなく、どこか外国の……?
七都は、ぼんやりと天井と窓を眺めながら思う。
この天井や窓を見ているということは、当然、自分は今これらのある場所にいるということ。
ここはどこだろう?
何でこんなところにいるのか?
体の下には、やわらかい布と弾力のあるクッションのようなものの感触があった。
どうやら七都は、どこかの見知らぬ建物の中で横になっているようだった。
そして、その建物は日本ではない?
湿った土と木の匂いがする。
その中に、懐かしいような香りが微かにただよっている。
香を炊いたような香り。これは……。
七都は、天井を照らしている灯りに見覚えがあることに気づいた。
アンティーク調のデザインの、あきらかに年代ものであることがわかるガラスの灯り。黒い縁があって、提灯のようにもUFOのようにも見える。
灯りは取りあえず、日本の普通の民家には全く似合わない照明器具であることは確かだ。
天井も部屋も、そして家自体をも、この明かりは己に相応しいものを選ぶだろう。
その灯りは、遠くから垣間見たことがあった。蔦をカーテンにした、古いガラスの窓を通して。
そして、それはつい先程、七都が魔神族の少女とサラと一緒にその前を通りがかり、見たものではなかったのか?
(あ……!!!)
七都は叫んだが、声は出なかった。
口は何かで塞がれている。
ねっとりとした違和感が、顔の下半分を覆っていた。
七都は顔を動かしてみたが、その違和感はびくともしなかった。
この独特の鼻を刺すような匂い。かさかさとしていて、ざらりとした感触。
これは……これは、ガムテープだ。
布のガムテープを口に貼られている!
ガムテープは口だけではなく、手首にも巻かれているようだった。
両手は後ろに回され、固定されている。そのあまり歓迎すべきではない感触から、やはりそれもガムテープだ。
恐らく足もそうされている。足首のあたりがじっとりと固められ、動かない。
七都は、何度も体を動かそうとして、その事実を確認した。
途端に激しい怒りと屈辱がこみ上げてくる。
なぜ自分が、こんなことをされなければならないのだ?
だめだ。まず、冷静にならなきゃ。
感情的になったら、何も考えられなくなる。
七都が横になっているのは、どうやらベッドのようだった。
柔らかい布と弾力のあるクッションは、おそらくベッドカバーとマットレス。
自分はガムテープで口を塞がれ、手と足を縛られて、ベッドの上に転がされている――。
そして、ここは、あの部屋だ。
さっき夕方の通りからガラス越しに見た、灯りのある部屋。蔦の茂った洋館の中の一室にいるのだ。
あのグリアモス――。あの黒い化け猫は、七都を眠らせた後、ここに連れてきたのだろう。
すると、この洋館は、やはり魔神族に関係があるのだろうか。
グリアモスは、主人に会わせるといって、七都を誘拐してきたのだ。
ということは、ここにその『主人』がいるという解釈が妥当ではないのか?
そして、その主人の住まいが、驚くべきことに、七都が幼い頃から知っているこの洋館だった。
グリアモスの主人ということは、もちろん魔神族に違いない。グリアモスが、この世界の普通の人間に仕えるなどということは、とても考えられない。
それに、さっきから微かに漂っているのは、魔神族が好むお香の香りだ。
もちろん、それを嗅いだのは別の世界、別の体なのだが、おそらく間違いはない。
友人の高村由惟子がここにいたら、飛び上がって喜びそうだ……。
彼女の憧れてやまない、当の洋館の中にいるのだから。
誘拐されて、手足を拘束されている状態でなければ、だが。
七都は、皮肉っぽく思う。
(でも、魔神族の家なら、来ないに越したことはないよね。由惟子にとっても、わたしにとっても……)
七都は無理やり首を曲げて、自分が横たわっているベッドを眺めてみた。
洋館に相応しいベッドカバーだった。
頬に触れる感触も柔らかく、寝ていてとても心地いい。高級感あふれるカバーだ。
青地に紺色の刺繍が全体にされている。竜をかたどった紋章が並んだような模様だった。
まるで王子様のためのベッドカバーだ。
七都は、思う。
前にもこんなことをされたことがあった。
馬に乗った金髪の男にいきなりさらわれて城に連れて行かれ、鍵のかけられた部屋のベッドに寝かされた。
そこには、魔神族の少女――イデュアルがいた。
朝の太陽の光に焼かれて消えていった、美しいイデュアル。紫の髪に金色の目の魔貴族の姫君……。
あの時はイデュアルの食料、いや、餌として、領主のランジェにさらわれたのだ。
けれども、あの時は手足の戒めも猿ぐつわもなかった。ただ、イデュアルのベッドに寝かされただけだ。
それは、魔力を自在に使えるイデュアルがいたからだろう。ランジェは、獲物を不自由にしておく必要はないと判断したのだ。
(じゃあ、今回、ガムテープでこんなことをされているということは……こういうことをしなきゃいけないってこと? あのグリアモスの主人というのは、わたしよりも魔力が弱い……ううん、もしかして、魔力が使えないってこと?)
だが、それはおかしい。
グリアモスの主人なら、やはり魔神族のはず。ならば、魔力は使えて当然だろう。
少なくとも、魔力をコントロール出来ていない七都よりは使えるはずだ。
七都の四肢を封じる必要は全くないだろう。
(単に、こういう趣味があるってだけかな……)
七都は、体を少し起こしてみた。
手と足は縛られてはいるが、肘や膝を上手く使って、それなりに動くことは出来そうだ。
七都がいるのは、ベッドの足元あたりだった。真ん中ではない。
イデュアルの部屋では、ベッドの真ん中に寝かされ、そのままイデュアルとランジェの会話を眠ったふりをして聞いていたのだが。
部屋の中には誰もいないようだった。少なくとも七都の視界には、動く者はいない。
しばらく耳を澄ましてみたが、廊下からも他の部屋からも、物音は聞こえなかった。
エアコンの低い唸り声が、途切れることもなく続いている。
(……って、エアコン?)
確かに天井と壁との境目の角――廻り縁の奥に押し込むように、エアコンが控えめに設置されていた。
エアコンのおかげで、部屋の中は快適そのものだ。
夜とはいえ、真夏。外は熱帯夜に違いない。この地域は海風が吹かない場合、昼間の熱が滞留してしまうのだ。
だが、魔神族のアジトにエアコンなどというものは、似つかわしくないと七都は思ってしまう。
(でもないか。風の城だって機械で浮かんでるっぽいもの。エアコンだって、あるに違いないよね。でも、この世界で魔神族にエアコンなんて、イメージ狂っちゃう。まあ、魔神族に扇風機よりかはマシかな)
ふと七都は、ベッドカバーの中心あたりに膨らみがあることに気づいた。
その膨らみは長く盛り上がり、ベッドの頭から下へと真っ直ぐに伸びている。
それは、ベッドカバーと毛布が被さってはいるものの、明らかに人の体の形を示していた。
誰かが、ベッドに横たわっている――。
七都の全身から、ひんやりとした汗が吹き出す。
そうだ。これがベッドなら、ベッドを使う人物がいるはず。客間のベッドでないのならば。
ベッドの真ん中で堂々と眠る、正当な主がいるはずなのだ。
(誰? グリアモスの主人だって人? でも……動かない? 眠っているの?)
その人物は、七都が目覚めてから、まったく音をたてなかった。微かな寝息さえ聞き取ることは出来ない。
それだからこそ七都は、その人物の気配さえ気づかなかったのだ。
七都は、恐る恐る視線を移動させる。
眠っているベッドの主の顔のあたりへ――。
(……!!!)
七都は叫ぼうとしたが、やはり、くぐもったうめき声が口の中で少し響いただけだった。
その顔――。
そこに眠っていた人物を見て、七都は目を見開く。
(セレウスっ!!!)
見知った顔。異世界の懐かしい顔。
七都を慕ってくれてはいるものの、七都のほうは、彼が七都に持っている過度の恋愛感情のために素直に接することが出来ない、その人物――。
その彼の顔が、そこにあった。
真っ直ぐ体と頭を上に向け、静かに目を閉じて眠る彼。
その目の閉じ方、睫毛の長さとカールの仕方、鼻の線、唇の形、厚さ。
七都は、闇の領域に旅立つ前、その滑らかな頬にキスをした。それもまだ記憶に新しい、夏休みの出来事。
だが、七都は思い直す。
(違う。セレウスじゃない。さっきも表で間違った。サラと一緒に)
そうだ。こんなところに彼がいるはずもないのだ。
第一、髪の色が全く違うではないか。