第3章 洋館の魔神たち 3
七都は、もう一度洋館を振り返った。
洋館には明かりが灯っていた。
天井にアンティークな形の明かりが張り付いているのが、ガラスを通して垣間見える。
蝋燭のシャンデリアでもなく、魔神族のためにアヌヴィムが用意する、青い炎のような明かりでもない。電気を使った近代的な明かりだ。
この家にも、普通に人が住んでいる。そう確認できることに、七都はさらに安堵した。
もしかしたら、魔神族と何か関係のある人々なのかもしれない。
けれども、この世界にも魔神族は普通にいるのだ。
案外、見張り人の誰かの家だったりするのかもしれない。それがたまたま七都の近所だったとしても、おかしくはない。
帰路につく人々が、七都とすれ違う。
携帯に夢中になりながらゆっくりと歩く、クラブ帰りの学生。スーパーの袋を両手に提げた女性。仕事の話をしながら連れ立って歩くサラリーマン。
そういった夕方の景色の中に混じっていることが、七都は嬉しかった。
ここでもまた、人々は生きている。暮らしている。それぞれの生活を大切にしながら。
やっぱり帰ってきたのだ、ここに。
何年も留守にしていたわけではないのに、その光景は妙に懐かしかった。
七都は夏の夕刻の景色を楽しみながら歩く。
やがて、その夕方の空間の中に、何か黒いものが存在することに七都は気づいた。
黒い影。人々よりも大きいが、背は低い。いや、横に長いのだ。
通り過ぎる人々は、それには全く無関心だった。そんなものはないかのように、あるいは昔からそこにあって当たり前のように、その前や横を通り過ぎていく。
何だろう、あれは。
あんなところにあんなもの、あったっけ。
近づくにつれ、それの輪郭がはっきりする。
七都は、思わず立ち止まった。
全身から汗が噴き出す。冷たい汗だった。
夏の夕方だというのに、その冷たい汗は背中を駆け下りて行く。全身を凍らせながら。
それは、七都がよく知っているものだった。
血のような赤い二つの眼が、黒い闇色の体の中に浮かんでいる。
そのぼやけた輪郭は、動物だった。
巨大な、しなやかな猫。
いや、『猫』と呼ぶには、可愛らしさは皆無。化け猫……怪物だ。
その黒い怪物は、アスファルトの道路にちょこんと座り、通り過ぎる人々を鑑賞するかのように、のんびりと眺めていた。
長い尾が、少しいらつくように、うねうねと動いて道路をたたく。
グリアモス……!!
七都は、それを凝視する。
足がすくんで動けなかった。
なぜ?
なぜグリアモスがこんなところにいる?
グリアモスに襲われ、傷つけられたときの記憶が蘇る。
七都はそれを頭から払いのけた。
そして、魔神族は、この世界にも存在するという事実を慌てて思い出す。
見張り人や、かつての七都の母のように住み着いている人々もいる。サラのように物見遊山で行き来する人たちも大勢いるだろう。
グリアモスがいても当然。むしろ当たり前のことではないか。
そして、もちろん、彼らはここの世界の人間には見えない。
見えるわけもない。見えると騒がれて、魔神族には都合が悪いからだ。魔法で隠されているに違いない。
あれが見えてしまうのは、自分が魔神族だからに過ぎない。
「じゃあ、別に怖がることないよね。何もしてこないはずだし」
七都は、自分に言い聞かせるように呟く。
「わたしが誰かなんてことも知ってるわけないし。きっとご主人がこの近くにいるんだ。で、ハチ公みたいにおとなしく待ってるんだよね」
ふと、額にある魔王たちの口づけの印が気になる。
この世界の人間の体でいるときも、あの口づけの印は額にあるのだろうか。
グリアモスには、あれが見えるのだ。
一応七都は、前髪を額の上に無造作にかぶせた。
そして、深呼吸を一回してから、ゆっくりとグリアモスの前を通り過ぎる。
不自然にならないよう、何げなく。他の通行人と同じように。
もし正体を気づかれて、ついてこられたりしたら、絶対にいやだ。グリアモスのストーカーなんて!
家を知られたりなんかしたら、後がやっかいになる。
自分だけならまだしも、家族を妙なことに巻き込みかねない。
けれども、グリアモスは、やはり七都には無関心だった。
相変わらず血の色の目で遠くをのんびりと眺め、その尻尾はパタパタと道路をたたく。
その前を通り過ぎ、しばらくしてから、七都は深く息を吐き出した。
よかった。無事に通れた。
正体も気づかれなかったようだ。
あるいは感づかれたのかもしれなかったが、少なくとも何もしてはこなかった。
遠慮がちに振り返ってみると、グリアモスの姿はなかった。
暮れなずむ青っぽい景色のには、家路を急ぐ人々の姿しかない。
その中に重なるたくさんの影は、まだそれほど濃い色でもなかった。
グリアモスの影のあの闇色は、見当たらない。
「あれ? どこかに行っちゃった? もしかして、夢だったりして。見間違いかな」
夢かもしれない。
向こうの世界から帰ってきて、まだそんなに時間は経っていないのだ。
その影響か何かで、変な夢とか幻を引きずってきていても、おかしくはないのかもしれない。
もしかしたら、まだ睡眠が足りないのかも。
帰ったら、少し休もう。
七都が思いながら顔を戻すと――。
「あなたが噂のナナトさまですか。風の魔神族の姫君」
視界いっぱいに、闇色が広がっていた。そしてその真ん中には、血の色の二つの眼。
グリアモスが、七都の前に立ちふさがるようにして座っている。
1メートルよりも近い至近距離だった。
再び七都の体は凍りつく。
グリアモスは、獲物に狙いをつけた猫のような姿勢で、七都をじっと見つめた。
「……だったら?」
七都はグリアモスを睨み付けた。
グリアモスになんか負けない。
私は風の魔王の娘。余り認めたくないとはいえ、唯一の王位継承者ということにもなっている。王女としてのプライドと威厳を持たなければ。
「一緒に来ていただけませんか? きっと私の主人は、あなたに会いたいと思うのですよ」
グリアモスが言った。
「あなたのご主人が? 何でわかるの? 会いたくないかもしれないじゃない?」
七都はさらに、グリアモスを睨む。
相当な迫力を出してそうしたはずだったが、グリアモスは動じなかった。それどころか、のほほんと笑っているようにも見える。
「いえ。あなたとミウゼリル様がおられなければ、我が主人が風の魔王になっていたはずなのですからね。そういう話を聞いております」
「え……?」
今、何と言った?
このグリアモス……。
「お断りされても来ていただきますよ、姫君」
七都の目の前が突然、真っ暗になる。
自分の体が地面にゆっくりとくずおれていくのを、七都は意識の端でかろうじて感じた。