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第2章 探索 6

 七都は、黙り込む。


 果林さんをフォローする言葉が見つからなかった。

 「違うよ」と言い切ることは出来ない。その通りだからだ。

 父がまだ母のことを思っているということは事実。否定のしようがない。

 向こうの世界に行く前のランチで、父本人からそれらしきことを確認済みだし、今回のことで、さらにそれは間違いのないことになってしまった。

 そして、母のほうもまた、父を思っている。

 二人は相思相愛。それもまた事実だ。間に誰かが入り込む余地なんてありはしない。

 父が果林さんと出会う前から。そして、自分が生まれる前から。


 とはいえ、今の果林さんの言葉を肯定すると、彼女はますます傷ついてしまう。

 そして、それは彼女に対して嘘をつくことにもなってしまうのだ。自分は事実を知っているのだから。


「どうせ私は、もともと家政婦だから……。家事が出来るから、置いてもらってただけだから……」


 果林さんが、ちょっと自棄気味に呟いた。

 そういえば、母も今の果林さんと似たような口調で言っていた。ストーフィの中から。

 七都は思い出す。


<どうせ私は家事なんて出来ないわよ……。料理だって、掃除だって、うまくはないわよ>


 うなだれたストーフィの中から、母はそうこぼしていた。


 父が果林さんに求めていたのは、主婦としての妻。

 家の中を清潔に保ち、料理をし、洗濯をし、娘を教育し、遊び相手にもなってくれる都合のいい妻。

 けれども、本当に妻として愛したいと求めているのは、七都の母、美羽。ミウゼリル。

 だからこそ、七都に彼女のことを『お母さん』と呼ばせることは禁じているし、彼女との間に七都の弟や妹も作らない。


 もちろん、父が果林さんに求めたことは、七都自身が望んでいたことでもある。そして、父も七都も、今でも二人とも、果林さんにそうあってほしいと願っている。

 だから、自分はここに来たのだ。

 このままでは家の中が滅茶苦茶になるから。父や自分が家事をしなければならなくなるから。その負担がいやだから。

 果林さんが心配とか、そんなのは二の次。言い訳だ。

 とどのつまり、自分たちの都合を押し付けているだけ。

 果林さんに戻ってきてほしいなんて、強く言えるわけがない。

 

 眉を寄せてうつむく七都を、サラが不思議そうに見上げる。


「結局私は、『家政婦』から抜け出ることが出来ないのよね。今でも家政婦。そりゃあ、戸籍の上では央人さんの妻で、あなたの母親ってことになってはいるけれど。それは飾り物。それも最初からわかっていたことなんだけどね。今さらそれがわかったからって、落ち込んで家出するのもどうかとは思うわ。でも、あの家から出ずにはいられなかった。たぶん、あなたのお母さんそっくりなあなたを抱きしめている央人さんを目の前で見ちゃったらね。笑っちゃうわよね。でも……この十年って、一体何だったのかしら……」


 果林さんが溜め息をついて呟いた。


「何って……。私を育ててくれた十年でしょ? 私が五歳から十五歳になるまで……」


 七都は顔を上げた。

 知らぬ間に涙が頬を伝っていた。

 果林さんは、ぎょっとした表情をして、七都を見つめる。

 

「十年間の、果林さんと私との思い出。果林さん、そのことまで否定するの?」


「それは……否定なんかするわけないじゃない。ナナちゃん、とてもいい子だったし……。とても楽しかった」


「これからも、果林さんとの思い出を作っちゃだめなの?」


 七都は、さらに彼女に質問する。


「私もナナちゃんと思い出をうんと作りたいわ。ナナちゃんが大人になるまで、誰か素敵な男性のお嫁さんになるまで、そばで見守っていたい」


「だったら、見守っていてよ……」


 七都の顔をじっと眺めていたサラが、七都の頬の涙を指でさっと拭った。

 そして、その指をぱくっとくわえる。

 サラはとてつもなく、まずそうな顔をした。

 彼女はあわてて、まだ残っていたブラックコーヒーをぐびぐびと飲む。

 その様子を見て、果林さんが噴き出した。


 果林さんは、幾分冷めた紅茶をゆっくりと飲み、コトリとカップを置く。


 「でもね、これは央人さんと私との問題なの。ナナちゃんとの関係が幾らよかったとしても、肝心の旦那さまとの関係が良好でなくちゃね」


「お父さん……。やっぱりお父さん、ここに迎えにくるべきなんだよね」


「央人さん、会社でしょう?」


 果林さんが、寂しそうに笑った。


「うん。どうしても抜けられないって……。プレゼンとかがあるって……」


「そういう人だものね。というか、彼は自分のプライベートな問題で人に迷惑をかけるのが許せないのよ。管理職だし、責任もある。彼がいなければ、プロジェクトだって前には進まない。責めないであげてね」


「だって……。果林さんの支えのおかげで、仕事していられるのに……」


「央人さんの仕事のおかげで、ナナちゃんはご飯も食べられるし、あったかいベッドで寝られるし、学校も行っていられるのよ。私だって、そのおかげで精いっぱい主婦を満喫してきた」


「それはそうかもしれないけど……」


「この間、ナナちゃんが行方不明になったときだって、央人さん、心配していたわ。何度も電話をかけてきてね。出張を切り上げて戻ってきたでしょう。だから、彼なりに私の心配もしてくれていると思う」


「……」


 そうは見えなかった。

 果林さんは、どうせそのうち帰ってくると。父は、そうのんびりと高をくくっているようにしか。

 もっとも、そう見えないように演技か何かをしていたのかもしれない。

 自分に心配させないようにするために、父は平静を装っていた。

 七都はそう解釈したかった。

 


 オーナーの香子が七都たちのテーブルに近づいてくる。

 彼女が持ったトレーには、ケーキが二つ乗せられていた。

 葉書に印刷されていた、そして店の前にも掲示されていた写真のケーキだ。

 果林さんが完成させた、この店の看板ケーキ。

 宝石のようなフルーツがたっぷり乗ったケーキに、七都は思わず歓声を上げる。


「私の奢りよ。ごゆっくりどうぞ」


 香子が果林さんに片目をつぶってみせた。果林さんは微笑んでお礼を言う。


「ナナちゃんには試作品しか出してなかったからね。完成品をどうぞ。ご遠慮なく」


「えへ。ケーキなんて、久しぶり」


 七都は、フォークでおもいきりケーキを削り取ろうとしたが、サラの不満そうな視線にぶち当たって、フォークの動きを中断させる。


「食べられないよ、私には。オエッってなっちゃう」


 サラが言った。


「あら、ケーキ嫌いなの?」


 果林さんが訊ねる。


「嫌いじゃなくてね、体が受け付けないんだよ。この子、向こうの世界でも、こういうものは食べられないの」


「人間じゃないもん。ナナトだってそうじゃない。私たちのご飯は、人間の……」


 七都は、フォークに突き刺したケーキをサラの口の中に突っ込んだ。

 そしてサラの上唇と下唇をクリップのように指先で挟む。

 サラは目を白黒させ、手をばたばたさせた。そして仕方なく、苦しそうにケーキを飲み込む。

 飲み込んだことを確認してから、七都は彼女の唇から手を離した。


「な、何すんのよ! ナナト、幼児虐待だからね!!」


「幼児じゃないでしょ。絶対私より何百歳も年上に決まってるんだから。外見は美少女でも、中身は相当のおばあちゃんだ」


 七都は、ちらっと冷めた視線をサラに送る。


「失礼ね。人間に換算すれば、まだ三十歳にもなってないよ! 乙女なんだからね!!」


 サラが、ぺっぺっと口の中に残ったケーキを吐き出しながら叫んだ。


「じゃあ、乙女のケーキは私が代わりにいただくね。食べられないんじゃ、もったいないもの」


「ケーキ2個なんて、太るからね、ナナト! 人間の体って不安定で正直なんだから!」と、サラ。


「こっちで多少太っても、向こうでは超美少女の姫君だから、だいじょうぶだもんねー」


「漫才はそれくらいにして、ケーキ食べ終わったら、寄り道せずに家に帰ってね。彼女も、中身が二十何歳かの妙齢の女性なら、特に心配いらなさそうだし」


 果林さんが微笑みながら言う。


「帰ってって……。果林さんは? どうするの、これから? うちにはもう……?」


 七都が再び泣きそうな顔をすると、果林さんの顔も曇った。


「しばらく香子のところに置いてもらって、ここで働く。いろいろ考えたいの。どちらにしろ……どんな形にしろ、そのうち家には戻るわ。もう少し頭を冷やさせてほしい」


「うん……。絶対だよ。戻ってきてね、果林さん。約束だよ」


 七都が差し出した小指に、果林さんは困ったような表情をしながらも小指を絡ませる。

 サラが指をくわえながら、羨ましげにそれを眺めた。

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