始まりは桜の花 04
「いつになったら、外にいける?」
千広に怒られないためには、どうしても語尾を切らなくてはいけなくなる。そっけない言い方になってしまうが、それで千広の微笑みの後ろに黒い影が差すのはかなり減った。
「さて、まずはお髪を結えるようになりませぬと」
「おぐし……って俺も千広みたいな頭にすんの!?」
油断した途端に、千広の扇子が飛ぶ。
ガンッと、隼人の頭にクリティカルヒットした扇子を拾い上げた千広は、再び笑みを咲かせていた。
「『私も千広のように月代を剃るのか?』と申してください?」
「えっと………」
「若様?」
千広がとうとう名前で呼ばずに若と呼び出すのは、爆弾の導火線に火がつく一歩前だということは、この短時間で隼人は本能的に悟っていた。
「私も千広のように月代を剃るのか?!」
「元服前の隼人様は、前髪でございますね」
(危機一髪!!!)
前髪ってなんだよ、とは思ったがとりあえずの危機は去ってため息をつく。
「武家ではだいたい十五の年で成人して前髪を落とし、月代を剃ることになります。跡目を継ぐのが早まった場合ではこの例の定かではありませぬが、隼人様は殿が未だ未だご健在。あと三年以上後のことです。前髪の間は、外を行く場合も脇差のみになります……隼人様におかれましては、先ず着物で歩くことからお慣れになってから脇差を差しての歩く練習になりまするな」
千広も説明慣れしたのか、隼人に聞かれる前にさくさくと説明してくれる。
学校ならば体罰処分ものだが、江戸の鬼の教育係りは落ち着き払っていた。
「……明日以降、世話係りを増やします。良いですね?」
千広の疑問系は今のところ命令形である。
(いっ、嫌だーーーー)
隼人が内心絶叫したところで、残念ながらその言葉が覆ることはなかった。
隼人が生活するにあたって、寝るための部屋と、勉強部屋の二部屋がある。
そのほかは、トイレ……すなわち後架と湯殿ぐらいしか行き来はしていない。
風呂は、当然シャンプーなどはなく糠という体を擦るものくらいで、隼人としては物足りない。
「夜具は調えさせております。私は御前に呼ばれておりますゆえ、失礼いたします」
(やぐ?布団とは違うのかな……)
「おやすみ、千広」
「おやすみなさいませ、隼人様」
(ようやく千広が居ない空間になった……!マジ、ほんと疲れた……!)
障子をがらりと開けて、布団に転がり込むつもりで居る隼人の目の前に、振り返った女の人が見えた。
「夜具の御用意が整いましてございます」
深々とお辞儀をされて、隼人も慌ててその前に座る。
ここに来て初めて会う女の人を、しげしげと観察してしまった。
千広が世話係りを増やすといっていたのは、この人のことなのだろうか……。
「御前から本日、若君さまのご事情を伺い、身の回りのお世話を致します、佐枝と申します」
「事情って…………」
「若君様が別の世界からいらっしゃったというのは、お屋敷の中でも未だほとんどが知らされておりませぬ。本来世子たる隼人様の世話係りは、五人は下りません。今まで小夜島殿お一人だったのは、御前からのお計らいなのです」
(ってことは…………本当なら千広みたいなのがもっとたくさん居てヤバかったってことか?)
そうは思っても、世話係りが通常千広レベルではないような気もする。
(絶対、普通の世話係りが五人以上いたほうが俺は安全だった気ぃする……)
「えっと、じゃあ佐枝も俺に勉強教えたりする人?」
「いいえ、わたくしは夜具の仕度やお髪の手入れなどを任されました。あとは隼人様のお眠りになっている間、ここで番を致します。これも、本当であれば女子のする仕事ではございませんが、昼も夜も男が詰めているよりは緊張が和らぐであろうと、御前さまが」
御前様というのは、隼人がここに来て一番最初に会った壮年の男、秋良兵庫のことで、この屋敷の主君でありここでの父親であると千広には教わった。
兵庫とはそれ以来顔を合わせていない。
何を考えているのか、隼人には今のところ全く理解できない人物だった。
「他にも、あっちとこっちを行き来した人っている?」
笑顔という顔の下には恐怖の般若というもう一つの顔を持つ千広と違い、佐枝は現代語を使っても怒らないし、おっとりとした微笑とくつろげるオーラを感じた隼人は、聞きたかったが聞けなかったことを色々と尋ねてみる。
「いいえ。すくなくともわたくしは存知あげません」
佐枝はそっと後ろを確認するようにして、閉められた座敷を見回す。
その様子で、千広が一切口にしなかった「秘密事項」に、佐枝が触れようとしているのだと気がついて、隼人も耳を寄せる。
「おおっぴらには知らされておりませんが、隼人様をこちらへ呼んだのは邪法を使う破鏡の黒蝶。おそらくは禁忌の力だと思います」
「はきょうのこくちょう……?あの十四夜ってやつ?男か女かわかんない感じの?」
「十四夜縫殿助、黒の羽織に総髪の、銀の蒔絵の太刀を持つ、正体不明の祟り屋です。御前様がどのように交渉したかはわかりませぬが、邪神とも人ともわからぬ存在です。連れているのは祟り神とか……」
隼人が黒魔術師、と感じたのは間違いでもないらしい。
優しげな佐枝の風貌に、初めて緊張味が走っていた。
「本来なら、破鏡の黒蝶と取引をしたということが露見すればお家の大事に響くほどです。お外に出ることがあっても、この名前は口にしてはなりません」
「じゃあ、絶対、現代からこっちに来たってバレちゃまずい?」
千広が今日何十回と、あちらの話は駄目だ、あちらの言葉はいけないと言った厳しい顔が脳裏をよぎる。
「ええ、決して口に出してはなりませぬ。決して、決して」
――ここは夢の中かもしれない。
しかし、決して覚めない夢の中かもしれない。
隼人は自分の小さな手のひらを握り締めた。
「――わかった。約束する」
厳粛な誓いを立てて、隼人はそこで何か引き返せないところに足を踏み入れた気がした。
――本当に俺は帰れないのか……?
隼人は突然この時代に呼び出され、何を求められているのだろう。
隼人には超人的な力もなければ、特殊な才能があるわけでもない。
ただ、毎日がろくでもなくて、つまらないと思っていただけの子どもだ。
この先に冒険やミッションは待ち受けているのだろうか。
それをこなせるのだろうか。
こなせたところで、帰れる保証はあるのか。
呼び出した邪法の十四夜はあの夜言ったではないか。
――呼ぶことは出来ても、戻すことは出来ませぬぞ、と。
十四夜が悪い黒魔術使いで、隼人が試練さえ乗り切ればいい黒魔術師か、白魔術師が出現して戻してくれる、ということがあるかもしれない。
ただ、十四夜の話を囁いただけで青ざめた佐枝から今日これ以上聞くことは出来ない。
実は十夜屋縫之助だけのスポンオフをかつて書いたこともあったんですが、データが消えました(爆
掛け布団といいうのは江戸の後期、大坂などのお金持ちだけに普及していたといわれます。某あばれんぼうの人が長屋で庶民にかけてあげるシーンなどありますが、吉宗公の時代にはそもそも存在しておりませ(略